2009年10月 8日 (木)

サファイアブルーの夕暮れ

サファイアブルーの夕暮れ

作:エリザベス・パワー
訳;上村悦子

ハーレクイン・ロマンス
2000年6月20日発行
株式会社ハーレクイン
640円

ハーレクイン・ロマンスはいつ頃から書店に並ぶようになったのか、それはもう記憶にはないが、女性に特定されたジャンルということで見向きもしてこなかった。けれど、のぞき趣味で読むことにした。
エッチな小説かと期待していたら、残念ながら違った。けれど女性に尋ねると、女性には充分にエッチらしい。
アメリカ人女性がイギリスで気球に乗る冒険をしていたところ、墜落した。民家に。その民家はとてつもない富豪で、主は車椅子に乗ったイケメン。物語はそれぞれ気になるライバルを挟みながらも、濃密に感じるようなやりとりがあって、例のごとくやきもきさせる場面も用意してあってゴールインする。そのときはイケメンは自らの足で立てるようになっており、万事ハッピーエンド。性交シーンはほんのわずかだ。女性には男との濃密な駆け引きがエッチになるらしい。男には女性の裸の描写がないし、エクスタシーの具体的な描写がなく物足りないのだが、それでもやはり濃密さは感じられる。
何で読みたくなったか思い出した。新しい表現による新しい刺激が欲しかったんだ。
男向けのエッチ小説の大半は犯罪小説か、性器の描写にこだわりすぎたり、性器の挿入、精液の発射が大げさで、しらけてしまうのが多いのだ。
ハーレクインに近いのが、ひょっとすると団鬼六作品だったりして・・・。

また次のを読んでみよ。ハーレクインに壮年の男がハマッたりてか。

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2009年2月27日 (金)

映画 スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師

スウィーニー・トッド  フリート街の悪魔の理髪師

アメリカ
2008年公開
監督: ティム・バートン
出演: ジョニー・デップ, ヘレナ・ボナム=カーター, アラン・リックマン, ティモシー・スポール, サシャ・バロン・コーエン
時間: 236 分

 どーしても濱田マリに見えてしまうパイ屋の女主人は悲しく滑稽だ

ブロードウェイ・ミュージカルの映画化。19世紀ロンドン。
自分の妻と子を横恋慕した判事に無実の罪で囚われの身になったスウィーニー・トッドが復讐の鬼になって街に戻ってくる。
トッドの殺した男たちはトッドを好いたパイ屋の女によってミートパイにされる。その味たるや最高のものとなり、店は繁盛した。
しかし女の嘘によって、トッドは最愛の妻を殺してしまうのだ。
映画は二段締めによって悲劇を深めている。判事の謀略で妻子を奪われ、女の嘘で妻を殺してしまうのだ。
それにしても悲しみが、そして人肉食のおぞましさがあまり伝わってこない。それはなぜか。歌の魅力によるものだろう。歌の華やかさ。これがすべてをコーティングして花の乱舞しているうちに舞台は終わってしまうのだ。
「シザーズ・ハンズ」以来の悲しく、残酷で、コミカルな映画が戻ってきた。ティム・バートン監督と俳優ジョニー・デップの初心を忘れないココロが悲しく美しい。

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2009年2月24日 (火)

映画 パンズ・ラビリンス

パンズ・ラビリンス(El laberinto del fauno)

製作国 メキシコ  スペイン アメリカ 

監督 ギレルモ・デル・トロ 

公開 2007106 

上映時間 119 

  

   非情と幻想と人情の織り成すコラボ映画

舞台はスペイン内戦。1944年。日本が敗戦した年は1945年。選挙で正当に政権を確立した人民戦線の左翼政権と、その転覆を謀った右翼のフランコ派による内戦だ。

そのところを舞台にした作品では「誰がために鐘は鳴る」「ミツバチのささやき」が思い出される。

「ラビリンス」というとお子様向けのファンタジーという感じがする。パッケージからしてもその思いを固めてしまう。まったく予備知識のないままなにげなく見ていて、意想外の展開に感動を倍加することが、気まぐれな私にはときどきある。まさに本作品はそのような楽しい発見に遭遇するもので「これは大人の映画だったのか!」と歓喜してしまうのである。

本作品はけっしてお子様向けのものではない。むしろできればR―13にでもしたほうがいいと思うくらいだ。ヴィダルが無抵抗の農民の鼻先をワインボトルの底で打ち潰し、苦しませてから銃で撃ち殺す。同じくヴィダルによる拷問で抵抗勢力の若者がボロボロにされる。これらはけっして未成年者たちには見せたくないものだ。

その軍人の非情な行為が少女の幻想シーンを際立てるし、抵抗勢力の人々の心をいっそう温かく感じさせてくれる。非情と幻想と人情のトライアングルなコントラストが腹の底から胸に向かってジワジワと感動のバイブレーションを立ちのぼらせてくれるのだ。

ある意味、軍人役のヴィダル(セルジ・ロペス)の名演技といえる。非情残忍で人間の心なんてまるっきり理解できず、軍人たるものの生き方を偏狭的に信望している姿が心を掴む。

このヴィダルと美少女オフェリア(イヴァナ・バケロ)がキャラ的には対等に競り合っているのだ。オフェリアの魅力は天性のものであり、年齢的なもの(ロリータ・エイジ)であるのに対し、セルジ・ロペスの演じるヴィダルは俳優としての鍛錬の見事な成果である。

大人に見せつける少女の幻想世界。かつてこのようなコラボ映画は私は思い出せない。子ども向けと誤解されやすく、それによって手に取らない大人、間違って手にしてしまう子どもがいるだろうと思うと少し残念である。

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2009年1月17日 (土)

酒とサイコロの日々    鷺沢萠

酒とサイコロの日々

鷺沢萠

新潮社 新潮文庫
平成15(1998)年3月1日発行

この作品は1993年10月 双葉社より刊行
1997年から98年 「週刊大衆」(双葉社)「酒とサイコロの日々」
        「近代麻雀」(竹書房)に「チョンボくんのこと」連載

   麻雀を知らなくてもガラの悪さに耐えられる人なら楽しめる活劇

驚いたのは、鷺沢萠が麻雀にハマっていたからではない。作中に頻繁に出てくる登場人物が解説を書いていたことだ。
安藤満、作中ではみちゅるくんは麻雀のプロであって文士ではなかったはず。麻雀を知らない私には、その道では有名人かもしれないが、あまりリアルではなかった。その方が、ドラマの終わったあと、解説者として登場するなんて「やっぱり実在してたんだぁ」と多少の衝撃があったのだ。このような方に作文させるなんて編集者も相当の豪腕とお見受けする。
その方をネットでサーチすると2004年3月27日にガンで死亡とのこと。1989年発病以後、闘病しながらの活躍だったという。そんな本物の雀士たちに取り巻かれて育てられていた鷺沢もみちゅるくんを追うように4月11日に首を吊ってしまった。悲しいことだ。博奕と酒に縋りつかねばならないほど、文筆という営為は辛く苦しく、そして孤独にさいなまれるものだったのだ。
それにしても、ガラの悪さ、活き活きとした描写はどうだ! 天より賦与された才能と、その採掘に命懸けだったサギサワの、読者には愉快な、彼女には修羅場が現出していて、私のような麻雀に無知な者にも充分に楽しめた!

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2009年1月11日 (日)

スリルはちょっぴりでいいの     真藤怜

「夜の職員室 女教師」

真藤怜

幻冬舎アウトロー文庫

平成17(2005)年610日初版

457円

シリーズ5冊目。真藤怜のデビューとなったシリーズである。

この作品への期待はもちろんHな世界に浸れるかどうかということである。頭がしびれるような気分にまでは引き入れられることはなかったが、ほのぼのとしたところまでは連れて行ってもらったような気がする。

個人的には男性作家の描くハードなこの手の分野は苦手だ。面白いとは感じられないのだ。たいがいが犯罪者が中心になるので、こちらは犯罪者に感情移入しなければならない。それが不愉快なのだ。

 それに対し、女性作家の場合は、現在のところ、犯罪者が中心になることはない。「犯罪者」というより暴力者というべきなのだろう。それは男の本能というものなのだろうか。

 私は男だが、犯罪的行為には共鳴できない。女性作家の場合は日常人の駆け引きが主となるのではないか。それで安心してHな世界に没入できるのである。

 さて、本作品では、犯罪の代わりの危うい仕掛けを次々と登場させてくれる。心地よい気分になれ、幸せな睡魔がそこには保証されるのである。

 職員室や保健室での性行為は不謹慎かもしれないが、犯罪ではない。この程度のスリリングさで十分と思うか、不足と思うか。性行為の描写もあまりグロテスクではない。それで十分と思うか、不足と思うか・・・。

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2009年1月 5日 (月)

みずうみ       川端康成

みずうみ

川端康成
新潮文庫
昭和35年(1960年)12月25日発行
平成4年(1992年)1月10日53刷
280円

昭和30年(1955年)4月新潮社より刊行
「みづうみ」

    悪魔のような天使

教科書に掲載されている「伊豆の踊り子」くらいしか知らない者が、他の作品を少しでも読むと驚いてしまうのではないか。川端文学がこんなにもHなものだったとは、と。
しかし、初期の作品から娼婦が描かれ、川端文学の源流であることが分かる。妻や恋人の枠を外れて、不特定の女性たちとの性交渉をモチーフにしているのは一見ふしだらである。それなのに川端文学には後ろめたさが感じられない。それは背景の時代性なのか、温もりに渇望していたということなのか。
「みづうみ」に登場する桃井銀平もまた、なんの罪悪感を抱くことなく欲望のおもむくまま美少女たちに執着する。現代感覚からすれば銀平はストーカーである。ストーカーもまた自分の行為になんら異常性を感じることがないという。こんな己の行為に無反省で病的な性癖を展開する作品はとても読めないという人もいるだろう。けれどその陰湿さが場合によって優しさの視点にもなる。美少女への執心は時には向日的に、時には陰湿に表出される。「伊豆の踊り子」や「掌の小説」にそれが結実される。
モチーフだけを読めばとてもまともではないが、場面転換の仕方がおもしろいし、巧みである。ほとんど気まぐれに転じているように見えるがやがて一点に集約されていく。そしてシュールな妄想描写、十八番の非常に密度の濃い比喩表現にはやはり感服する。この比喩表現技法は現代詩の真骨頂である。それが小説で展開していることがなにやら妙な気分になる。詩は読者そっちのけの巧妙緻密な表現の世界といえる。小説はその対極にあるとまでは言わないが、文体的には分かりやすいものではなかったのか。「悪魔のような天使」私にはそう思われた。
表題になった「みずうみ」は主人公銀平が幼少のころ住んでいた近くにあったもので、たびたび回想される。ストーカー銀平誕生の秘話が読み取れるところである。

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2008年12月24日 (水)

夢を見ずにおやすみ     鷺沢萠

夢を見ずにおやすみ

鷺沢 萠

講談社
1996年1月18日第1刷発行
1300円

初出
「今日も未明に電話は鳴った」「小説現代」1992年6月号
「あなたがいちばん好きなもの」「小説現代」1995年1月号
「夢を見ずにおやすみ」 書き下し

     男のアホな生態を知ればグッスリ眠れるのだ

少しずつ少しずつ、作者は中年に近づいていく・・・。その兆しの見える作品だ。天才少女作家の早熟な渋い正統な文体で書かれたデビュー作(「川べりの道」)。プロになって一転して不良少年少女たちの群像を描くようになり(「ハング・ルース」)、この度、書き下した作品は新たな転進に向かっていくべく、落ち着き、というか早くも倦怠感漂う、けれど人間の心の深みをまさぐった意欲作になっている。
誰でも多少は事件性を持っているのかもしれない高校進学。本名松尾めぐみが公木、そして鷺沢のペンネームを持つ作家に育った3年間の高校生活は、進学の背景になった家庭の事情、そして入学した高校の同齢の驚くべき実態を目の当たりにしながら、たぶん、しっかりとネタとしてしこんだ。その吐露は出尽くし、新たな結婚という事件を通過してこの度の3作品に結果した。
「今日も未明に電話は鳴った」と「夢を見ずにおやすみ」にはまだ、高校進学の衝撃がネタにされているが、この3篇によって家族、高校、結婚の体験を文学的に昇華し、少女から大人(中年)へすっかり脱皮した。最高の傑作は「夢を見ずにおやすみ」だ。あちこち荒い言葉づかいが鼻につくが、基本調子はかなり近代文学の伝統に乗って心情を分析して深みに沈んでいる。
父が頭をなでなでしてもらいに通いつめて相当の金額を注ぎ込んだと思われる銀座のバーのママを訪ねて、意外な展開へと進むのだ。ケンカするわけでなく、友だちになるわけでもない。距離は変わらない。銀座のバーの癒しのシステムに気づいていくのだ。泣きたくなるような非生産的な主婦生活を背中にしょって乗り込んだ亡き父馴染みのバーとママ。それを高く評価するわけではないが男どもの解放されるシステムをそこで理解し、わが結婚生活のあり方も見えてくる。男の生態を理解しようやくわが結婚生活も癒される。それでようやく「夢を見ずに寝られそうだ」なのだ。

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2008年11月 8日 (土)

月刊サギサワ          鷺沢萠

月刊サギサワ

鷺沢萠

講談社(文庫)

1997年10月15日第1刷

390円

1994年10月ハードカバーで刊行されたものの文庫本版

  才気煥発!

文庫の帯に「日記エッセー」と評されていた。いい得て妙。いまだったらさしずめ「ブログの女王」とかいわれていたかも。
「あとがき」で本人自身が言っているように、こんなひどいものが本になっていいのか、ましてや文庫本化とは! というものだが、彼女がアイドルだったということの証左である。内容はあんまり期待できないが、才気煥発な文体はさすがである。よっぽど退屈していたときに目をやるのにいいだろう。若い人ってそんな時ってけっこうあるよね。このジジイ奴には、若いエネルギーが浴びせられて、これはこれで有用なものでした。

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2008年10月31日 (金)

片腕  散りぬるを   川端康成

 

「片腕」を読んで井伏鱒二の「屋根の上のサワン」を思い出した。中学校のときの教科書に載っていた。作家とはかくも深夜を孤独に過ごす人種なのだ。

「サワン」は中学の教科書掲載だから、「健全」な作品ではあるが、少女監禁飼育の寓話ではないかとうがってしまうこのごろの時代であるが、川端の方はまさにスレスレである。

ハイテクな表現力によって誰一人「エロ文学だ」などとはいわない。これが藝術なんだ!

「散りぬるを」は不思議な作品だ。殺人事件が実際にあったように描かれている。事件に身近にいた小説家が、記憶の定かでない加害者に代わって事件の真相を浮き彫りにしようと試みる。

加害者男と被害者の女二人は顔見知りで行きずりの殺人ではない。親しく怨恨など想像できない。想像のできにくい事件を作中の小説家が詳細に検討していく中で明らかになるのはハリウッド映画のようなオチではなく、二人の女の人生なのだ。

冒頭に相当するところで

「狂気の犯罪は正気の犯罪よりも遥かに悪であるという考え方の方が、曇らぬ目である」

この文に躓いて逡巡した。

 その反対ではないのか? 作者の論拠を知りたいと思ったが、なかなか掴めなかった。

正気の犯罪は確信によって引き起こされる。必然か偶然かというと必然である。狂気の犯罪は狂気なるがゆえに偶然である。偶然の殺人ほど残虐なものはない。

 つまりこの文は加害者のスタンスではなく、被害者のスタンスで語っているようだ。

 怨恨などまったくなく、単にいたずらだったものが偶然が重なって二人の女性を殺めてしまう。うっかりだから刑は軽くなるのか、精神の障がいがあったから軽くなるのか、その逆なのだ。

 けれど川端の作品は社会正義や倫理やそして当時流行っていたであろう重々しい実存とは無関係に謎解きのように事件の再構築が進んでいく。どの作品でも複数の女と関係を結ぶことを「不倫」とはあまり思わない雰囲気がある。むしろ娼婦たちやいろんな女性たちと関係することが遊びの一種のように思っているフシがある。ひょっとして西欧の道徳に捕らわれない日本伝統の価値観を川端自身が根深く持っていて、それが彼の文学の特徴を支えているのではないか。

 ダイナミックなドラマの展開や実存に迫るものよりも、人間のひたすらなエネルギーの描写に、それも精緻な描写に向かっている。キリスト教思想に拘束されない文学の現代での実現、それが川端の文学だと感得する。

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2008年9月29日 (月)

映画 毛皮のエロス        

毛皮のエロス/ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト
AN IMAGINARY PORTRAIT OF DIANE ARBUS

制作年:2006

    女流カメラマン誕生秘話

なんて紛らわしい邦題だ。間違いではないが、そしてニコール・キッドマンが主演なのだから見当がつきそうなものだが、悲しい男の性、見てしまって後悔し、そして期待とは裏腹な新しい発見をする。
安穏な日常に飽き足らなくなったカメラマンの主婦にして毛皮商の両親を持つダイアン、じつはディアンと発音するのが正しいのだが、彼女は不思議な隣人に興味を持ちその世界にハマり込んでしまう。
ちなみにDIANEは、イギリス式に発音するとディアン、どういうわけかアメリカ式になるとダイアンとなる。モビールとモバイル、ビンディングとバインディングの違いみたいなもの(アルファベットのⅠの読み方で趣が変わるのはティーとチャイ、イランとアーリアンが代表格だろう)。
それはともかく平凡だが、ちょっとヘンな主婦にして二児の母は不思議世界にはまり込んでしまう。それはフリークの世界だ。これがなぜ強調されぬ! そのわけはいまだに障がい者がタブーだからだ。
隣人は多毛症という病におかされて全身毛だらけ。それを無知な人々はケダモノの業にとり憑かれた人間として好奇の目で見てしまう。
「エレファントマン」を思い出してしまうが、毛だらけで、ニコール・キッドマン扮するダイアンと並ぶとまるでディズニーの「美女と野獣」である。しかし、多毛人間に紹介される奇怪な人々が集結するシーンとなると往年のホラー映画「フリークス」さながらである。障がい者がフリークとされた時代である。そして容姿の奇怪な人々を受け入れない人々と魅了されてしまう人々がいることを、さりげなくこの映画は織り込んでいる。
彼女の両親、夫、長女・・・いってみれば世の中のマジョリティーだ。それにもめげず、彼女はどんどんマイノリティーの異世界に没していく。それだけのエロスなら物足りない。彼女は多毛男と同衾するまでに深みにはまってしまう。
あっさりこういってしまうとありきたりな不倫物語だが、彼女にとってはどうも不倫とは感じていないらしい。相手は夫に代わる男ではないのだ。夫にない男なのだ。もちろん多毛男のほうはそうではない。充分に野心的で嫉妬もする。夫の方にはまだ余裕がある。「飽きれるよ」という程度のダメージである。しかし多毛男には、自分を理解し受け入れてくれながらも永遠に自分のそばにはいてくれない女性ダイアンと、その夫に根深いねたみを抱いていたに違いない。ダイアンの出現によって彼の孤独は癒されるのだが。
「フランケンシュタイン」では、博士は自分の作った怪物が寂しがっているので女の怪物を作ったのだが、両者は結びつくはずがない。お互いに欲しいのは美なのだ。
多毛男も本当に欲しいのは同病の仲間ではなく、自分の醜怪さを受け入れてくれる「健全な」美女なのだ。
こうして思い入れのすれ違う男女二人は微妙に違和感を持ちながらも歩み寄り、女流カメラマンが誕生していくのである。

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