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2008年5月31日 (土)

愛しのろくでなし パム・ヒューストン 鷺沢萠訳

愛しのろくでなし(COWBOYS ARE MY WEAKNESS)

Pam Houston
翻訳:鷺沢萠

講談社
1800円
1994年5月31日第一刷発行

ハードなアウトドアと女のグチャグチャ

12編の短編集。鷺沢萠が訳したというので手にとってみたのだが、端から端まで読んでさて、と思ったのが、原作者の姿が見えないことである。
確かに鷺沢の著作物の一つとして手にしたのだが、読み終われば原作者が気になるというものである。ところがどこにもいない。本を手にとってあちこち眺めてみるといた。
「PAM HOUSTON」と表紙に書いてあった。これが作者か。あまり前面に押し出されてはいない。やっぱり有名人の勝ちなのだ。PAM HOUSTONよりも鷺沢で売らないと、ということだろう。けれど全ての作品を読み終われば原作者が気になるものではないか。
ネットでパム・ヒューストンをサーチしてもあまり芳しくない。そこで「PAM HOUSTON」でやり直すと出てきた。英文でだが。けっこう著作物が出ていてファンもそれなりにいる作家のようだ。ただ、AMAZONNでは、鷺沢のこの本書ぐらいしか訳本が出ていない。日本ではまだまだ無名なのだ。

ステージはアメリカの中西部だろうか。カウボーイやラフティングが登場するアウトドアスポーツをやっている男どもがネタになっている。「愛しのろくでなし」とはそんなやつらのことだ。
一人の女に定着できないとか、女よりもスポーツを選んでしまうとか、女にとってこの上なく落ち着けない男どもに、それでも縋っていくしかない女たちのグチャグチャな模様が物語りになっている。

出だしはずいぶん乾いた文体で、書かれた場所を想像して読み進んでいったが、後半からいきなりのめり込んでしまった。
アウトドアっぽい読み物といえば、日本ではどこかオタクっぽいか、ストイックな男たちの独壇場になっている。それが、本書では有り余ったエネルギーのはけ口をスポーツか女か、あるいは両方に注ぎ込む、あまり精神的でない人々で物語が構成されている。いってみれば位相は日常と変わらないところにある。アメリカのアウトドアへの関わりがそうなのだろう。

日本のアウトドア系の読み物と比べてとても異質だが、並べて読まれてもいいほどのハードである。ハードなアウトドアスポーツと日常的な女の心の組み合わせ。おもしろい!

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2008年5月22日 (木)

奇跡の島    鷺沢萠

奇跡の島(文庫)

鷺沢萠
稲越功一=写真
角川書店
平成13年(2001年)2月25日初版

1994年12月 朝日出版社より刊行

    奇跡のトリック

こういう企画って成功しているんだろうか。わたしには写真が邪魔でしかなかった。写真に詩が添えられていたりするものだが、それは悪くはない。しかし、小説には邪魔だな。小説はすべてを叙述しているから。おかげで小説も中途半端な感じになった。
鷺沢得意の過去と現在を交互に描く手法で、冒頭のマリアが日本人の真理子だということが次第に分かってくるが、なぜそうなったのか、ほんのちょっぴりだが悲しいわけがあった。
「ほんのちょっぴり」ではなく「ひどく」だろうとは物語の設定だが、どうも共感を呼ばないから「ちょっぴり」になった。
愛する省介の会社が倒産しかかっている。それを救うために、たまたま乗車していたメキシコのバスの事故を利用して、自分は死んだことにして保険金を省介にプレゼントする。その後はマリアになってホセの愛人になってメキシコにとどまる。ときどき流す涙はそれが起因になっているのだ。

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2008年5月17日 (土)

英霊の聲  三島由紀夫

英霊の声

三島 由紀夫
河出書房新社  (河出文庫―BUGEI Collection)
1990年10月4日初版発行

河出文庫「F104」1981年6月刊行を再編集

(所収作品)
英霊の聲
F104
朱雀家の滅亡
『道義的革命』の論理  磯部一等主計の遺稿について
「二・二六事件と私」抄/「朱雀家の滅亡」後記

    三島先生、ごぶさたしておりました

この作品を読むためにこれまで準備してきたのではなかろうか。怒涛のように押し寄せる敬語、難読漢字。こんなに読めない漢字が自分にあったのかと、懐かしい思いを久々にしたが、敬語や文語的表現の理解できる自分が今いることに喜びをまず覚えた。

「英霊の聲」
こんな純情な作品を書く作家が三島由紀夫だったのだ。「天皇」に(実在の昭和天皇ではなく)彼は懸想していたのだ。それだからこそ、忌憚のない諌言を「天皇」に申し上げることが出来るのだ。

2・26事件と特攻隊の英霊たちが盲目の口寄せから呼び出され、天皇のために死んだが、霊としてこの世に現れ無念の思いを語るものである。
だからといって三島が天皇批判者だったということではない。ヨイショする人間ではなかったということである。

三島一流の構成で、わずか一間での一夜の出来事のはずなのだが、劇的にドラマが進行していて映像や音声が読む者の耳や目に訴えてきた。

「F104」
これは体験エッセイではなかろか? 三島は自衛隊に招待されてF104搭乗をしたのではなかったか。音速で飛ぶ乗り物に乗せられ本来なら目を白黒させるべきところを、彼は必死で戦い、分裂した肉体と精神の再統合のために文章を書き綴った貴重な体験レポートとして読めた。彼の華麗なる技巧満載の文体に脱帽する。

「朱雀家の滅亡」
俗物的な臣民意識とデーモニッシュな超臣民意識が弁証法的進展で描かれている。2000年以上にわたって天皇家にお仕えしてきた朱雀家が太平洋戦争敗戦で滅亡する、こぶりだが三島の真骨頂が描かれた戯曲。

「『道義的革命』の論理  磯部一等主計の遺稿について」
三島の天皇批判とは、あるいは革命とは、社会全体を転覆させる意図のものと違って「天皇」の行動や発言などの道義を問う超忠臣的なものだということが分かった。
超忠臣、すなわち出来すぎの優等生。優等生は先生をサポートすることによって評価される。誉められる。誉められることを期待して行動する。
「『よくぞ、わしの気づかないこと、過ちに気づいてくれた』先生は叱るどころか褒めてくださいました。」
こんな感じだということが分かった。この誉め言葉のいただけるのを待った、ということのようだ。

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映画 ローズ THE ROSE

映画 134分
製作国 アメリカ
初公開年月 1980年11月

監督: マーク・ライデル 
原案: ビル・カービイ 
主題歌: アマンダ・マクブルーム 
出演: ベット・ミドラー 
アラン・ベイツ 
フレデリック・フォレスト 

   人間失格、だから愛する

allcinemaの解説は「かなり汚らしい」という書き出しから始まっている。レビュアラーの性向にもよるだろうが、わたしもそれに近い感触だった。太宰治の「人間失格」を想起したくらいだ。アーティストの汚れた生活とそこから生み出されるアートが、対照的なほど聖性を感じるものだ。

実在の人物ジャニス・ジョップリンもそうとうな破天荒に満ちた人生を送ったのだろう。コンサート会場で陽気に原付バイクを乗り回す映像を見たことがある。
そして当時トップ歌手だったジャニスを超越してしまいそうな、もはや演技なのか、彼女自身なのか、ジャニスに意地を見せたベッド・ミドラーがすごい。

ジャニスへの愛情がなした業ゆえなのか、演技を超越したベッドの意地ゆえなのか、わたしたちはスクリーンの主人公ローズを知らぬまに愛していることを感想を思い浮かべるときに気づくのだ。

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2008年5月10日 (土)

我が心は石にはあらず

我が心は石にあらず

著者:高橋 和巳
昭和42年(1967年)10月20日発行
昭和47(1972年)年3月30日29刷
新潮社

昭和39年(1964年)12月~昭和41年6月 雑誌「自由」掲載

   闘いの背後には撹乱分子あり

いまさらだが、ようやく高橋和巳の小説を手にした。これまでは「わが解体」を読んだ他、は古本屋で買った掲載雑誌で「悲の器」を少し読んだだけだった。
念願の作家の作品をいまさら手にしたのは、自分の人生の収拾期にたどり着いたからだろうか。
1970年、高校生のころ、先輩に勧められて、いつかは読んでやろうと思いながら、今日まで一冊の小説もまともに読んでこなかった。
その先輩は40歳過ぎたころに死んでしまった。先輩への懐旧として、二人の高校時代の思い出として高橋和巳はあった。

高橋和巳が生きていたころは広く熱烈に読まれていた。高橋和巳の著書を初めて読んだのは彼が亡くなった1971年の翌年、大学に入学してからだ。そのとき読んだ「わが解体」はかなり自分に誠実な記録という印象がある。

高校や大学のころに読めばひょっとして投げ出していたのではなかろうか。
現在では、主人公や作者よりもはるかに年上になってしまった現在こそ通読できたのだと思う。

本作品は、中途までは、該博な教養、知識、つまり彼の本業は中国文学なのだが、経済や労働運動、工学への薀蓄が深く描写されていて、それに比較してドラマとしての進展が少々退屈気味であった。その長い滑走を経て、いったん飛び立ったと思ったら、結末に向かってグイグイ上昇していった。労働争議も、男女の関係も、この先どうなっていくのだろうとハラハラして、読むのが止められなくなってしまった。

研究所員で、労働者組織のリーダーである主人公信藤誠は、理性的でそう過激ではない。その人徳と保守ではないが既成左翼にも組していない思想によって労働者の広範な支持を得ていた。そんな彼を破滅させたのは、読者の予想を裏切って不倫問題によってではない。組織の裏切りによる争議の背後からの撹乱に敗北したのだ。

いつの時代にも分裂分子、スパイといったものがいるが、それをテーマにしたがゆえに、60年代70年代の高揚した反体制運動に共鳴した人々の興味ある作品となったのだと思う。

高橋和巳の著作はまだ数冊蔵書している。また読める日が来ることを楽しみに待ちたい。

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2008年5月 3日 (土)

川端康成初期作品メモ 介護小説としての「十六歳の日記」

川端康成メモ

テキスト 日本近代文学大系42  川端康成 横光利一集 角川書店

「葬式の名人」「十六歳の日記」「伊豆の踊子」「掌の小説」「温泉宿」「水晶幻想」

「葬式の名人」大正12年(1923)5月 24歳
「十六歳の日記」大正14年(1925)8月~9月 26歳
「伊豆の踊子」大正15年・昭和元年(1926)1月~2月 27歳
「掌の小説」「日向」*〔大12年8月発表〕
      短編集として差様々な年代の作品が所収されている
「温泉宿」昭和4年(192910月~5年3月 30歳
「水晶幻想」昭和6年(1931)1月~7月 32歳

急に読んでみたくなる作品、作家はいるものであるが、それを抑えて、計画通り読み続ける人もいるだろう。わたしはそれができない。読書は気まぐれの行為から生涯抜け出せないようだ。
鷺沢萠の全作品を読んでやろうと決めて、これも気まぐれなのだが、それを続けている最中に、気まぐれの虫が騒ぎ、鷺沢世界の渦中から浮かんできた作品をも読んできた。
太宰治の「ヴィヨンの妻」。そして川端。真っ先に思い浮かべた作品が「山の音」だった。わけはない。気まぐれの虫の選んだものだ。ところがわが蔵書棚から探し出せず、取り出したのが角川の近代文学大系42巻だった。
これは優れた企画によるものなのだ。頭注などに解説や注釈が親切についていて、解読の手助けをしてくれる。
ただお目当ての「山の音」は所収されていなかった。初期作品ばかりである。佐伯彰一の解説によると、川端は戦後急に脚光を浴びるようになったという。
「伊豆の踊子」はどうだろう。戦前に書かれたものであるが、戦後の新しい時代の幕開けにふさわしい青春の物語だ。そんなところが大衆受けしたものだろうか。

「葬式の名人」はすでに文豪の片鱗をうかがわせるような名作であると思った。
「十六歳の日記」は現代において改めて読み直されてもいい作品だ。
佐江衆一の「黄落(こうらく)」とモブ・ノリオの「介護入門」と並べて読まれてもいい。
「十六歳の日記」は、同居している寝たきりの祖父の介護を経験する少年が主人公の小説であるが、リアルに描けている。
「掌の小説」は超短編の作品ばかりを所収した短編集の数編がここに掲載されている。ときどき注釈があって読解を助けられた。現代の小説と著しく違うのは、商業ベースに洗練されていない表現があるということではないだろうか。そこが物足りなくて過去の文豪が懐かしくなるのかもしれない。表現が分かりやすさを求められる商業目的の現代小説に比べて分かりにくい表現、特に川端は実験小説も試みるほどで、その分かりにくいところのある表現がむしろ味わい深く魅了されるようである。

「温泉宿」は山の中の温泉宿で働く女たちの物語。主人公がつかめない。群像描写ということだろう。三部作になっている。「A 夏逝き」「B 秋深き」「C 冬来り」。
当時はそうだったのだろうか? 宿の女中たちはお客や板前さんなどに恋をし、挙句は売春をする。娼婦たちも出てくるが、あまり違いがなさそうだ。
そんな女たちだが、けなげな生き方がある。社会批判や、心理描写よりも風俗描写になっている。テレビドラマや映画になりやすい作品だ。作者の目は女の性(さが)に向けられている。それなのにエロ小説になっていないのはなぜか。濡れ場が描写されていないというだけでなく、生きる厳しさが背景にきちんと備わっているからだろう。

川端康成は文学史を見ると「新感覚派」と称されている。不思議だった。「伊豆の踊子」を読む限り、どこが新感覚派なのか。「水晶幻想」は表現の実験小説というものらしい。あらすじは分かったが、ときどきあちこちに空想が飛躍するのには辟易してしまう。これを新感覚派というものなのだろう。そんな技法を模索しなくても、川端は充分に並とは違う粋な感覚の持ち主である。

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