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2008年9月29日 (月)

映画 毛皮のエロス        

毛皮のエロス/ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト
AN IMAGINARY PORTRAIT OF DIANE ARBUS

制作年:2006

    女流カメラマン誕生秘話

なんて紛らわしい邦題だ。間違いではないが、そしてニコール・キッドマンが主演なのだから見当がつきそうなものだが、悲しい男の性、見てしまって後悔し、そして期待とは裏腹な新しい発見をする。
安穏な日常に飽き足らなくなったカメラマンの主婦にして毛皮商の両親を持つダイアン、じつはディアンと発音するのが正しいのだが、彼女は不思議な隣人に興味を持ちその世界にハマり込んでしまう。
ちなみにDIANEは、イギリス式に発音するとディアン、どういうわけかアメリカ式になるとダイアンとなる。モビールとモバイル、ビンディングとバインディングの違いみたいなもの(アルファベットのⅠの読み方で趣が変わるのはティーとチャイ、イランとアーリアンが代表格だろう)。
それはともかく平凡だが、ちょっとヘンな主婦にして二児の母は不思議世界にはまり込んでしまう。それはフリークの世界だ。これがなぜ強調されぬ! そのわけはいまだに障がい者がタブーだからだ。
隣人は多毛症という病におかされて全身毛だらけ。それを無知な人々はケダモノの業にとり憑かれた人間として好奇の目で見てしまう。
「エレファントマン」を思い出してしまうが、毛だらけで、ニコール・キッドマン扮するダイアンと並ぶとまるでディズニーの「美女と野獣」である。しかし、多毛人間に紹介される奇怪な人々が集結するシーンとなると往年のホラー映画「フリークス」さながらである。障がい者がフリークとされた時代である。そして容姿の奇怪な人々を受け入れない人々と魅了されてしまう人々がいることを、さりげなくこの映画は織り込んでいる。
彼女の両親、夫、長女・・・いってみれば世の中のマジョリティーだ。それにもめげず、彼女はどんどんマイノリティーの異世界に没していく。それだけのエロスなら物足りない。彼女は多毛男と同衾するまでに深みにはまってしまう。
あっさりこういってしまうとありきたりな不倫物語だが、彼女にとってはどうも不倫とは感じていないらしい。相手は夫に代わる男ではないのだ。夫にない男なのだ。もちろん多毛男のほうはそうではない。充分に野心的で嫉妬もする。夫の方にはまだ余裕がある。「飽きれるよ」という程度のダメージである。しかし多毛男には、自分を理解し受け入れてくれながらも永遠に自分のそばにはいてくれない女性ダイアンと、その夫に根深いねたみを抱いていたに違いない。ダイアンの出現によって彼の孤独は癒されるのだが。
「フランケンシュタイン」では、博士は自分の作った怪物が寂しがっているので女の怪物を作ったのだが、両者は結びつくはずがない。お互いに欲しいのは美なのだ。
多毛男も本当に欲しいのは同病の仲間ではなく、自分の醜怪さを受け入れてくれる「健全な」美女なのだ。
こうして思い入れのすれ違う男女二人は微妙に違和感を持ちながらも歩み寄り、女流カメラマンが誕生していくのである。

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片腕     川端康成

片腕

川端康成

     

    孤独な夜の幻想

フェチ・・・というのかな。女性の右片腕を借りてきて自分の部屋で自分の腕と付け替えて一夜を過ごす幻想的な小説だ。
「眠れる美女」もそうだが、起承転結がないのでどこまでも続きそうな物語を終結させるには物語の対象を殺すしかない。
この物語も、ネタバレしてしまうが、女性のふくよかな片腕の脈が事切れそうな暗示で終わる。
極端なことをいってしまうが、日本文化の脈々と続いているように思われる。源氏物語に婚礼だったか儀式を描写した場面が長々と続くところがある。また、黒澤明監督の「乱」など美しい様式にこだわった、絵巻のような映画がある。そして川端の、ダイナミックな物語の展開をそっちのけにして、言葉の表現に入れ込んでいる。エロスを捕らえるために極限的な追究をした描写力に鑑賞者は心服するということになるらしい。
本作品もまた詩である。川端はメッセンジャーとしては、日本の伝統文化の擁護者らしい振る舞いをしているが、じつは表現(レトリック)の前衛、革命家である。
現代詩は読むのに疲れる。言い慣らした慣例的な表現を避け、表現のオリジナリティのみで作品を構築しているから。川端の小説群もまた同様で、ストーリーを追うだけの読書法では物足りないのである。センテンスセンテンス、パラグラフパラグラフをいちいち噛みしめることが川端文学の鑑賞法なので、短編ながら読了するのに時間がかかってしまう。しかも再読を要求する。

「眠れる美女」は彼の豊富な性交渉体験が成した業、と安易な空想に走ってしまいがちだが、「片腕」はもちろんそんな空想ももたげてくるが、それを超越した「幻想」とまでいえる空想力による異界の構築物だ。そして死をもってしないと物語りは締めくくれない。
それにしても孤独だ。たくさんの女性たちと性交渉しても酷く孤独だ。

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2008年9月27日 (土)

映画 パヒューム

映画 パヒューム

上映:2007年
監督: トム・ティクヴァ
原作:パトリック ジュースキント (著), Patrick S¨uskind
   「香水―ある人殺しの物語 (文春文庫)」

   匂いに満ち満ちた映画 数奇な香水調合師の生涯

邦画だったら、母に汚物とともに廃棄されそうになった誕生悲譚、犬並み?の嗅覚という異能など、悲しくも珍奇な宿命を背負って生まれた男の生き様に涙を誘わせたことだろう。
ハリウッド映画なら、「沈黙の羊たち ハンニバル」のように主人公を怪物に仕立て上げ、例えば拉致した美女を煮詰めるなどという驚愕の残忍シーンで目を覆わせたことであろう。
・・・はて、この映画はフランス映画だったか?
すべてが中庸で、涙もなければ、残忍な仕掛けもなく、ひたすら甘美な香りが漂い、しかし、冒頭と終幕はグロと美の対極でバランスをとっている。なんといっても最終シーンの、あっと驚き、かつ華麗な展開に観客もまた刑場に見学に来た市民たちと一体になるだろう。ついに完成した究極の香水の威力が発揮されるのだ!

妻には社会的メッセージがなくてもの足りず、娘にはグロさがなくてもの足りず、しかし、夫にはその華麗なシーンの連続に・・・?、そして珍しい、匂いの充溢したシーンの全幕に満足するのである。
極めつくした香水調合師(パヒューム)の最後の野望として、窮極の香水を調合すべき人倫の道を踏み外すといった通り一遍の物語にはしたくなかったであろう製作者側の気持ちは分からないでもないが、主人公の異能をもっとお披露目してもらいたかったし、もっと刺激的な仕掛けも欲しかったし、涙も欲しかった。その上での終局の華麗さを映えさせてもらいたかった。
究極の香水もなんだか「いってみればフェロモンでしょ?」という技術大国の日本人はあっさりいってしまえるシロモノのようだが、これは映画のせいではないだろう。

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2008年9月23日 (火)

眠れる美女    川端康成

眠れる美女

川端康成

        高齢者も欲情する

私の読書は、布団に入って眠くなるまでの束の間の時間にしている。ゆえにそう長くない読書時間なので、読みきるまでが長い。
「眠れる美女」の世界もまた布団に潜り込んでのことなので、パラレルというか同時進行というか、完全な寝物語である。そしてすぐに眠くなってしまう物語なので、読みきるのにだいぶ時間を費やしてしまった。しかも、まだ1篇読んだきりで、これから所収の2編に関わっていかねばならない。それがいつまで続くのか、一冊の本を読了するまでどれくらい時間がかかるか分からず、それまで最初読んだ物語を覚えているのも定かではないので、覚書として「眠れる美女」の感想を書きとめておくことにする。

知り合いの老人から紹介された秘密クラブ。それは海岸近くの小さな家で少女に近い若い女性と一夜を共にするところだ。変わっているのが、その娼婦たちは客が来る前から眠りについていて最後まで目を覚まさない。
客は眠れる女と夜を過ごすのだ。しかもどれも処女である。
なぜそのようなことになっているのかというと、すっかり男の用事を果たさなくなった老人たちのプライドを守るためである。接合や射精だけが性交ではない。女の柔らかい身体に触れながら眠ることこれがどうも性交の本質らしい。

老いても性欲は残っている。この認識は、じつはこの高齢社会において重要なメッセージである。男根が勃起しなくても性欲は枯れないということだ。それならその性欲はどのように処理されるべきなのか、老いらくの恋もいいがそれは滅多にない。若い者たちと同じくどうしても性欲処理の機関が必要ではないか。
1960年代、川端康成61歳代に執筆されたものだが、この問題は2008年の今日ますます重大になっているといえよう。

それはともかく、谷崎潤一郎なら少女と同衾したならあり得るだろう老人の密かないたずらをネットリと描写するところだろうが、川端文学はもう少し乾いていて、いたずらというよりは、風邪などひかないようにとかいがいしく世話をするところがおもしろい。しかも、谷崎ならネットリとしながらもどこか健康な明るさがあるのだが、川端の場合、もう少しストレートで、・・・やっぱり欲情してしまうのだ!

それにしても眠っている娼婦とはおもしろい着想だ。一見、アクションがあまり期待できないところから敬遠される設定である。老人が考えそうなところである。本作品も短編で終わっている。同じ設定で各作家の競作という企画をしてみたらどんな作品群が生まれるだろう。

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2008年9月 4日 (木)

零戦燃ゆ   映画

零戦燃ゆ

1984年8月11日

128分 カラー
製作:東宝映画
監督:舛田利雄 
原作:柳田邦男 
 
配役    
山本五十六:丹波哲郎 
下川万兵衛:加山雄三 
小福田租:あおい輝彦 
宮野善治郎:目黒祐樹 
浜田正一:堤大二郎 
水島国夫:橋爪淳 
吉川静子:早見優 

   奉仕の精神には泣けてしまう

80歳の母が最後まで見続けた。堤大二郎や橋爪淳、早見優が主演した青春映画ともいえる。戦争の主体は若い兵士たちなのだから。そして80歳の母と同世代なのだ。甦る青春である。けれど本当の主役はゼロ戦である。脚本や演出でなんとか客の入る映画に仕立てようとしても覆い隠せないほどゼロ戦が存在を主張している。
ゼロ戦は日本誇りとして、世界最高性能の軍機。これでアメリカに撃って出るのだ。
アメリカ機はこのゼロ戦に勝てない。なぜなら、製作思想の違いがあったからだ。人間の命を大切にするために、ぶ厚い鉄板を用いていてために動きが鈍くなっていたのだ。それに引き換え、ゼロ戦の鉄板は紙のように薄い。操縦士の命はいくらでもとって変えようというものだった。これでは性能が良い悪いの比較はできない。
しかもゼロ戦が大空の主役だった時期はすぐに終わり、人間を守りながらも高性能な戦闘機がアメリカで開発された。といっても馬力が強いだけの飛行機だが。
人の命をなんとも思わない非情の戦闘機だが、ゼロ戦には責任はない。あるのは人間と運命を共にしようという悲しさがあるだけだ。
悲しくも崇高だったのは、友人の命を救うべく、彼女の前からわが身を引き合う友情である。女を馬鹿にしているようにも見えるかもしれないが、俺が、おれがと彼女を得るために画策したり女々しくなったりがないのは、とても清々しい。女も馬鹿には描かれていない。その友情をよく見極め、女もまた我が身を捧げようとする。
「奉仕の精神」評判のよくない精神だが、他者のために我が身を無にすること、これにはやはり泣けてしまう。

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