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2008年10月31日 (金)

片腕  散りぬるを   川端康成

 

「片腕」を読んで井伏鱒二の「屋根の上のサワン」を思い出した。中学校のときの教科書に載っていた。作家とはかくも深夜を孤独に過ごす人種なのだ。

「サワン」は中学の教科書掲載だから、「健全」な作品ではあるが、少女監禁飼育の寓話ではないかとうがってしまうこのごろの時代であるが、川端の方はまさにスレスレである。

ハイテクな表現力によって誰一人「エロ文学だ」などとはいわない。これが藝術なんだ!

「散りぬるを」は不思議な作品だ。殺人事件が実際にあったように描かれている。事件に身近にいた小説家が、記憶の定かでない加害者に代わって事件の真相を浮き彫りにしようと試みる。

加害者男と被害者の女二人は顔見知りで行きずりの殺人ではない。親しく怨恨など想像できない。想像のできにくい事件を作中の小説家が詳細に検討していく中で明らかになるのはハリウッド映画のようなオチではなく、二人の女の人生なのだ。

冒頭に相当するところで

「狂気の犯罪は正気の犯罪よりも遥かに悪であるという考え方の方が、曇らぬ目である」

この文に躓いて逡巡した。

 その反対ではないのか? 作者の論拠を知りたいと思ったが、なかなか掴めなかった。

正気の犯罪は確信によって引き起こされる。必然か偶然かというと必然である。狂気の犯罪は狂気なるがゆえに偶然である。偶然の殺人ほど残虐なものはない。

 つまりこの文は加害者のスタンスではなく、被害者のスタンスで語っているようだ。

 怨恨などまったくなく、単にいたずらだったものが偶然が重なって二人の女性を殺めてしまう。うっかりだから刑は軽くなるのか、精神の障がいがあったから軽くなるのか、その逆なのだ。

 けれど川端の作品は社会正義や倫理やそして当時流行っていたであろう重々しい実存とは無関係に謎解きのように事件の再構築が進んでいく。どの作品でも複数の女と関係を結ぶことを「不倫」とはあまり思わない雰囲気がある。むしろ娼婦たちやいろんな女性たちと関係することが遊びの一種のように思っているフシがある。ひょっとして西欧の道徳に捕らわれない日本伝統の価値観を川端自身が根深く持っていて、それが彼の文学の特徴を支えているのではないか。

 ダイナミックなドラマの展開や実存に迫るものよりも、人間のひたすらなエネルギーの描写に、それも精緻な描写に向かっている。キリスト教思想に拘束されない文学の現代での実現、それが川端の文学だと感得する。

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