霊や神の発想の起源
霊や神の発想の起源
わたしは霊感などというものなど相手にしたことがなかった。興味がなかった。自分には関係ないと思っていた。まさか、ひとだまに食い殺されかけて、一晩中、苦しむとは。
四階建ての団地の三階に住んでいたときのこと。子どものいない、まだ妻と二人きりのときだ。北側の六畳を寝室にしていた。潮鳴りの聞えるところだった。南側の部屋は居間にしていて、ベランダがあった。
寝室の南側がふすまになっていたが、タンスを置いて、行き来できないようにしていた。
タンスと壁の隙間に、1メートルくらいの竹製の物差しを立てていた。
ある夜、カタンという音で目が覚めた。どういうわけか、ふすまが開いて物差しが倒れたようだ。すると、南側の窓が少し開いて、風が入ってきた。風は生暖かく、生臭かった。風に乗ってスルッと塊が浸入してきて、居間を一回りすると、寝室に飛び込んできた。天井をグルグル回りだした。それはひとだまのような感じのするものだが、炎のような熱さはなかった。ひとだまは死んだおばあさんの顔に見えた。懐かしい顔だ。「おばあさん」と声を掛けると、微笑んだ。しみじみと見ていると、天井から降りて、わたしの顔に近づいてくる。そのときの形相は、見たこともない恐ろしいもので、もはや、おばあさんの顔ではない。おばさんならわたしに危害を加えることはない、という自信はなくなった。わたしの顔まで降りてきて睨みつけては天井に戻り、数週するとまた降りてわたしの顔を睨みつける。グァッと開いた口は耳まで裂けて、鋭い牙のような歯が乱杭のように並んでいた。だんだんと顔に近づき、次はいよいよわたしの顔を頭ごと噛み砕くだろうと思われた。汗がぐっしょりと流れるが、助けを求める声がまったく出ない。目をつぶろうとまぶたに力をこめるが、恐ろしい形相は視界から消えない。
隣に寝ている妻に助けを求めようと手を動かすが、手首までしか動かない。やっと妻の腕に触れるが、妻は向こう側に寝返ってしまい、もう、届かない。次に襲われたら確実に噛み殺されると思われた。
そして、その瞬間が来た。目の前で口が大きく開かれると、わたしは気を失った。どれだけたったの分からない。
まず、音が聞えてきた。外から、鳥の囀る声が聞えてきた。まぶたが明るくなっていることに気づいた。そして、まぶたを恐る恐る開くと、平和な朝になっていた。
わたしは心霊現象など、これ以外では一度も経験したことがない。ただ、この団地の人たちは、壁から地の滴るのを見たり、いきなり戸がガタガタと震えたりするので、出て行く人たちが続出した。市報でこのことが取り上げられ、自然現象だからと弁明していた。長年、この団地の立っている丘は荒地の手付かずのところだった。刑場であり、姥捨て山であり、伝染病患者を棄てた場所とされているところだった。
もちろん、この体験はわたしには笑い話であり、これによって、霊魂は実在する、などと言いだすことにはならなかった。
霊や神は、簡単に言えば、存在しない。物質である脳髄の高度な働きによって想像されたものである。
けれども、といいたい。神はどんな原因で想像されたのだろうか。
困ったときの神頼み程度で思いついたものだろうか。確かに直接的には、窮地に立たされた者が、その者の知恵で創作されたものであろうと思う。
圧倒的な自然を前にして、人間を超える力を感じ、人間社会で生まれた問題など吹き飛ばされると思う。また、個人ではなし得ない力、知恵が集団にもまれて発生したとき、やはり、個人を超える力を感じ、人間を超越する存在を幻想しがちだ。
神様が人間を救うという発想など、都合のいい欲望による創作と考えるのがたやすい解決策だ。
天災を前にすると、神の威力を感じたり、神の不在を感じたりする。人間の欲望の領域を越えると、神のことを考えだしたくなるのは、何とか自分の守備範囲で解決したいという思いがなした想像の産物、というふうに考えたくなる。
人間は夢見る生物だ。夢はドリームとヴィジョンに分けられると思うが、わたしたちはあまり区別しないでユメといっているのは、同じことだからと思っている証だ。夢を見るのは自由だ。人によっては、それが励みにもなるし、抑圧にもなる。また、それが空疎なこととすることができるし、価値のあることとすることもできる。
霊や神を感じることは、精神の歪みだということができるし、精神の健全のために必要なものだということもできる。
霊や神を道具とする見方もある。権力者による精神支配の道具といわれる。けれど、あるときは権力者への抵抗の装置ともなる。
なんでもかんでも、思いが行き詰まると、神様のせいにするのは許せない、という者がいる。神様は人間の眼を多い、人間のたゆまぬ知的営為のみが人間の眼を開かせる、という。神は逃げ場でしかないのだろうか。
人間の知恵はこれまで、たびたび敗北してきた。良かれと思ってしたことによって、とんでもないしっぺ返しをされた。
だからといって、また石器時代のようなところには戻れない。
霊や神は、夢のような精神の働きではなく、物質なのだろうか。
人間が感覚するものを、具象化するのは、どのようにも、たとえ奇天烈なものであっても、それは自由だ。だが、それほど自由になっていないかもしれない。
人間の発明品の多くが、身近なところの模倣から始まっている。電気のソケットとプラグは、わたしが子どものころ、オス、メスといっていたように。
人間は、火をどのように我が物としたのだろうか。摩擦によって炎が燃え立つ、という法則は人間の基本的な営みからやってきたものといわれている。
神は自分の姿に似せて人間をつくられた、といわれている。人によっては、その逆で、神は人間の姿に似せて創られたものという。
発想の多くが、神様からの授かりもの、霊感、というよりも、人間のエロチシズムによっているようだ。
けれど、人間はなぜ発想することができるのだろうか。脳髄の作用、シナプスの作用・・・。DNAが世界の生命を形成し、支配している。
そのDNAはどうしたのだろう? 発生起源はどうなっているのだろう。偶然の化学反応とかではなく、DNAと地球の自然環境の絡みでできたのではないだろうか、と漠然と思う。
家の図を見て、環境の違う世界中の人々は正しく、間違わず、家と判断できる。
そのように、直接的なラインがなくても、人間は表象できる。
そのDNAはどこから飛来したのか。飛来元を、人間は神の世界、天国と、人間の表象はひとしなみに多様な具象をDNAの世界から抽送してくるものを受け止め、人間的に歪曲して投影しているのではないだろうか。
直接的には、神などいない、といえる。けれどその起源がうかがい知れる。
ただし、その起源的な神に力があって人間の運命を途中から変えるような働きはないというしかない。人間と起源的な神に交流はない。宇宙の彼方からエネルギーが飛来して、人間の運命を左右するということまではないというしかない。
人間を超越した、想像のモデルはある。例えば、二元論の発生もそこにあるのではないか。ブラフマンとアートマンに分かれてしまうのは、細胞の一つ一つに共生しているミトコンドリアの働きではないかと思えてしまう。生命の基礎である肉体という物質を構成する細胞が二元であるところから二元論を発想するエネルギーが迪送されてくるというように。そのミトコンドリアやDNAのアミノ酸は宇宙から飛来したのではといわれている。
例えば、脳腫瘍に病んだ少年が、エイリアンを撃退するイメージ療法をしたところ、腫瘍が小さくなり、治癒に向かったという。
人間のイメージする力のバックボーンに、宇宙からの飛来物で、地球の生命起源に一役買ったある要素が何らかの働きをしているといってもいい。それが神の原型ではないだろうか。
けれど、交流できる神様は、やはり人間がそんな神の原型を人間のロマンチシズムで表象させた神様である。その神様はもはや物質ではない。自然現象を左右することはできない。表象は結果によっているから。それこそ幻影だ。根源への親のようなものへの郷愁であり、憧憬である。人間のパラダイムの上で力を発揮する極めて人間的な存在である。人間を超越しているように見えても、人間の発想の枠内に留まる存在である。そんな神様はいる。
霊は神よりも身近である。神よりも一層、人間の想像である。物質ではない。ひとだまはプラズマだった、という人もいるが、確率的にあまりない結論である。人間の牧歌的精神が夢見た現象といえる。
教会は神様の霊に満たされている、という。その他にも、心霊スポット、パワースポットと呼ばれるところがある。
思うに、温泉もわたしにはパワースポットだと思える。神様よりも思い込みの度あいが強く、共同幻想であることが多い。
アヘンや水銀が薬だった時代がある。精神障がい者がパワーを持っているように感じられた時がある。身体に何らかの異変を起こすものの表象が、霊であり、心霊スポットであり、パワースポットである。
どの神様が一番偉いか、という議論はないだろうか。どの教えが一番優れているか、ということなら聞いたことがある。
他の教えはみなことごとく、低級とされ、迷信とされる。
キリスト教が優れているか、仏教か、イスラム教か、神道か・・・。
公教か、正教か、新教か、大乗仏教か、上部座仏教か、正宗か、真宗か・・・、なぜか、教えとなると、優劣をつけるようになる。
教えに優劣はある。民族の枠を超えたもの、性差を超えたもの、心身のハンディを超えたもの、時代を超えたもの・・・。より普遍の極みに立つ教えこそが優秀な教えであろう。ある教えを信じたばかりに人生を転落することがある。それはべつに問題ではない。けれど、いくら脱俗といえども、人間生活の原則を破った教えを守ったばかりに、とんでもないことをしてしまう恐れについては注意するべきだろう。例えば、人を殺してはならない、盗んではならない、嘘をいってはならないなど。もっとも、いかなるときも殺してはならない、盗んではならない、嘘をいってはならない、といえるかどうかは、まだ未解決といえる。
古代ギリシャの哲学から科学が発達したように、聖書や信仰からカウンセリングや倫理学が発達した。人間の奔放な行動を戒める装置として以外、それにどんな役割があるのだろうか。
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