2006年3月20日 (月)

小唄

邦楽決定盤2000シリーズ  小唄   

キングレコード
〈唄〉蓼 胡津留
〈糸〉蓼 胡穣

     日本酒をゆっくり飲む夜に

なぜだか分からないが、小唄の雰囲気にとても惹かれている自分があった。
小学校の登校路の途中にあった料亭から流れてきた三味線が、子どもながらに優美に感じたものだった。
それから50年近くたち、とうとう入手してみたのが本盤である。期待は裏切られなかった。長唄の「助六」がアレンジされた「花のくも」もある。30曲収録されているが、その数曲を現代語訳してみた。
カラオケで騒ぐのもいいが、小唄を味わいながら、日本酒をゆっくり飲む夜があってもいいなぁ。

(とほ訳)
紅梅に憧れて今朝の白雪は
恋の思いだけ降り積もる
ゾゾッと震えが来るそのそっけなさ
身も世もありゃしない
雪のような白肌に
春の芽生えを待つしかないよ   (紅梅に)

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2006年3月11日 (土)

星の降る森で

星の降る森で
本山 賢司 (著)

東京書籍
1992年10月1日第一刷
1992年12月18日第2刷
1400円

       本書で命の浄化

 表紙や随所に描かれているイラストも著者の手による。イラストレーター&ライター。
 文章はイラストレーターでもあるらしく、動物たちの細密な描写が特徴だ。ちょっとムリに挿入したようなぎこちなさが鼻につくこともあるが、アウト・ドア系が好きな者ならば、学習になるな、と受容してしまうものだろう。
 タイトル名に惹かれたのが本書を紐解く動機になったが、予想とはちょっとだけ違っていた。焚き火の前に座って、一人、あるいは相棒と二人で何事か物語を語りだすのかと思っていたのだ。そんな場面はなかったが、そんな場面も似合う作品群だ。そういう意味では予想に近かったわけだ。
 掌編からやや眺めの力作まで各種そろっている。ほとんど里山が舞台で、山岳文学ではない。それだけ生活の匂いも漂っていて、田舎生活に憧れている人、里山遊びに憧れている人にもにお勧めだ。
 参考までに申し上げると、ニュアンスは違うかもしれないが、「釣り吉三平」と同じ舞台だといっていいと思う。ただ、少年物と決定的に違うのは、死のテイストが各所に漂っていることだ。
 著者の自然観がそこに露出しているのか? 自然に囲まれて命をみなぎらせるという文学もあるだろうが、本書には山は死者の魂が集まってくるところ、という哲学が感じられてならない。自然は死と背中合わせ、死は生命力の裏返し・・・、死の世界に彷徨し、無事帰還して日常に戻ることができれば命の浄化ができるというものだろう。本書を耽読してわたしたちも浄化のお相伴に預かれれば幸いである。
 本書は文庫本でも出ているが、できれば単行本がいい。本のカバーがまたいい味しているからだ。

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2006年2月19日 (日)

ドラえもんの理科おもしろ攻略

ドラえもんの学習シリーズ
ドラえもんの理科おもしろ攻略
天体(地球・月・太陽・星の動き)がわかる
指導/日能研

小学館760円+税
1996年10月10日初版第一刷発行
1998年2月20日初版第6刷発行

           親父もわかるドラえもんの理科攻略

新聞によると、子どもたちの科学への興味が減退気味で「太陽が地球を回っている」と
答える者もいるという。
ぼくらが子どもの頃の大人たちはその点「戦争に負けたのは科学力が足りなかったから
だ」という反省が共通の認識としてあり、科学教育に力が注がれた。
けれど十分理解して進級していったわけではない。いろいろな実験器具などを使って先
生は説明したのだろうが納得できないまま進んでいった。そんなこだわりから卒業でき
ないで心の底で尾を引いてきている。もはや「専門家になろう」などという夢を持てる
歳ではないが、せめて日常の常識程度は知っておこう、と本書を買ってしまった。
太陽や月や星座は日常身近に関わっていると思うからだ。もっと別の入門書もあっただ
ろうが、選んだ理由は次の通りである。

*必要なのは、理解できていなかったところを重点的に説明してくれているものでい
 い。
*そんなに詳しいものはいらない。
*できるだけ苦痛なく取り組みたい。めんどうで途中投げ出すものではダメだ。

以上のことから、中学入試用のポイントを説明した本書を選んだ。いい歳した親父がド
ラえもんの本を開いたわけだが、やっぱり読み答えはあった!
月の動きをもとにした旧暦を知るのに、また星座観察をしていくのに足がかりになった
と思う。

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2005年11月27日 (日)

鈍っているが必要な批判力

1.情報社会に潜む危険な選択

現代の社会は情報に支配された時代であり、世界はそのネットワークで覆われている。それは便利でもあるが、危険でもある。

インターネットの世界では、01年ごろからウィルスが爆発的に広まり、私自身は小さな被害ですんでいるが、身近な人たちが続々と感染し被害にあっている。国際テロリストの仕業であるとまことしやかなうわさが飛び交ったものだ。

そして02年は住民基本台帳のインターネット化、および国民背番号制の元年にあたり、個人情報流出の危険がいよいよ高まる第一ステージがスタートした。自分のメールボックスに届くメールを開くべきか否か、あるいはメールで勧誘される提案に乗っていいものかどうか、ウィルスやマルチ商法の被害程度ですまない事態が、いつ起きるか分からない。そんな背景が整い、いよいよ新たなステージが始まる。

2.進む管理社会は人間を家畜化する

すでに公的機関や私企業では個人情報が収集されているという。各個人が管理され、操作される傾向が強まっている。それらはいかにも個人にとって有益なふうに装われ、結局、企業の利益に繋がるものだ。かつて農民たちは生かさず殺さず年貢を搾り取られたように、現代人たちは企業の戦略に陥れられ、カード破産寸前まで特定企業の商品を生涯にわたって買わせられていくかもしれない。ほんとうは危険極まりない劇薬が「痩せるから」と通販で売られ、全国で被害者が続出するのはまだ単純な事態なのかもしれない。

ちなみにわたしたちが、気の利いた言葉をつぶやこうとすると、CMの台詞だったり、作曲しようとして口ずさむと、ヒット曲のフレーズが現出するばかりである。それが象徴するように現代人は骨の髄までメディアに支配されている。やがて大衆はエネルギーをコントロールされた家畜となり、政敵はことごとく不利な情報を集められ罠に陥れられ、支配政党は階級として固定化していくかもしれない。


3.ボケた日本人

「余剰の征服は必要の征服よりも大きな心的興奮を与える.」(G.バシュラール)
わたしたちはおいしい商品を買うために情報を求めている。しかし、ほとんどが批判のない一方的な広告に欲望を誘発されて衝動買いしているだけに過ぎない。商品の研究家ではない消費者にとって「情報」とは煽情でしかない。「痩せる」というフレーズに惑わされて劇薬を買い、命を脅かされた消費者は煽情的行為に無防備だったのだ。企業や小売業者が「良心」的な日本の風土に培われて、免疫力のなくなった日本人にはやむなしということだ。

日本の資本主義が高度に発達する過程で、商品の良心(サービス)的な開発や販売こそが結局は益になることを企業や小売業が学習してきたからだ。例えばNECでも富士通でも国内の、あるいはアメリカの有名メーカーのパソコンならどれを購入しても大きな失敗はしない。中国はその点、今回の事件は、発展途上の闇市的資本主義の段階である証左になっている。こういう段階にこそ商品や企業の正しい情報の収集が必要なのだ。

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大衆のわたし

1.社会のバランスのために

欲望の成就に向けてガムシャラに突進するのではなく、じつに周到に、したたかに、計画的に、十分な戦略を立ててことを為していく。こういうことを楽しんで実行できる自立した人間は、ホッブズの描く「能動的人間像」といえるのではないだろうか?楽しくワクワクすることを、さあ始めようとするとつねにブレーキをかける者がいる。食指の動かないクソ面白くなさそうな為すべきことを思い出させ、欲望の先行を制御し、キマリや忘れていたような約束などを持ち出すのだ。しかし、意気消沈の仲間を励まし、たんたんとダンドリをつけて事の処理にあたらせる。カント的な「自律的人間像」だと思う。いずれも理性的で自立した人間である。両者がいて社会はバランスが取れている。

わたしは間違いなく能動的人間に親近感を持つ。ただ十分に理性的でないので、自分勝手であったり、計画が中途半端で終わったりする、という心配も付随する。

2.ブーム嫌いのブーム追い

「大衆」とはまず自分であることを思い出さねばならない。
「大衆」論を目の当たりにするとたいがいは屈辱を感じるものである。自分の愚昧さ、無力さ、無知が突きつけられるからである。しかしそれらはみな事実なのだ。

わたしには適当な周期で夢中になるものがある。それらは若いころやりたかったものばかりで、また生きていく上で大切なもののように感じられるものだ。流行を追うのは嫌いで、大切なものによって自分だけの世界を作ろうと思う。ところが自分のやることはことごとくブームになるのである。だからわたしをモニタリングすれば、格好のリサーチになるのでは?と思うことすらある。じつはブームを先導するわけではなく、ただブームに敏感なだけであろう。

大勢の人々と同じような余暇の過ごし方を無意識に好んで選択しているという事態は、自分が良くも悪くも大衆の一員であることを自戒していなければならないということなのである。悪しきポピュリズムに煽動されることのないように。


3.悲観しないで自足の生活を試みてみようか

いまや日本国家は巨大な組織になろうとしている。住民基本台帳ネットワークの施行を皮切りとして、政府は国民を乳牛のように飼育し、税金や労力を絞れるだけ絞ろうとしている。現在は、パソコンのOS会社がアップデートのお知らせをパソコン画面でしらせているが、やがて「搾乳の時間だから畜舎に入りなさい」のような政府のお知らせが画面に並ぶ日が来るだろう。迷子の牛は取り付けてあるビーコンによってすぐに探知される。いずれ、牛との違いが見出せない日が来ることだろう。徘徊老人向けの探知機器はすでに実用されている。

一番怖いのは自覚のないまま組織に埋没し、主体的であり、自由だと思い込んでしまうことである。すでにメディアの操作は骨の髄までしみ込んでいる。浪費に対抗するように見せかけた清貧の勧めも怪しい。清貧によってできる余剰の力をすべて政府に吸い取られそうである。さしあたってディオゲネスのライフスタイルを見習うべきだろうか。

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もっと精神的に!

1.人間とは人格?欲望!

欲望とは人間の悲しい性(さが)である。自分勝手な欲望ながら、ひたむきに追い求めようとする者を見ると、自分を忘れて手を差し伸べてあげたくなる。

対照的に欲望にギラつかず清楚な生活をしている人を見ると、すがすがしく思え、心のゆとりが感じられる。

人間は根源で掻き立てられた欲望を満足させようとして、それが中和されるまで行動し続ける。欲望は自然に沸き起こるだけでなく、外部の作用によって煽り立てられるものである。欲望に満足するまでは心は一途になっていてゆとりなどない。それが許せるときもあれば、許しがたいときもある。

人間の生のエネルギーとは欲望である。人間とはすなわち欲望そのものである。

2.豊かさとはやっぱり大量消費のことか

いまでも「豊かさ」とは贅沢・浪費ができることだと素直に認めよう。それができないから悔し紛れに、ナチュラルな、手作りだらけの生活を自慢しているのだ。高級車に乗れないから、自分で整備したボロな愛車を自慢する。高級料理が食べられないから、自分で料理するのが趣味なる。しかも家庭菜園ものだゾって。たくさんの人間を動かすことができないから、小さな家族の団欒を幸せと思い込む。

豊かさとは他人と同等になることだと思っている大勢の人々。職場に着ていく服装や車が貧相だから貧乏だと思われている少数の人々がいる。同じ給料をもらっているのにどうしてそんな錯覚を抱かれてしまうのか?彼らは趣味に極端にお金を注いでいて、その一点で贅沢をしているのだ。どちらが豊かでどちらが貧しいのか。

食べきれないほど料理を出すホテルで忘年会をしようと主張する人はもう少数派になってきている。多数の人々はそんなことはご免だと思っている。さっさと家族や恋人といっしょにいたいと思うのだ。けれど浪費を自戒するようになったのではない。キャンプするわけでもないのにRV車を乗り回したりしているのだから。

日本では、つい昨日まで「豊かさ」とは周辺と同じことができることだと思っていたフシがある。車やテレビや庭がなくても、ようするに収入が少なくても貧乏ではないということがある、ということがようやく認識され始めている。

3.〈個人の自律〉

現代の社会でもっとも必要と思われる「倫理」とはどのようなものか?〈個人の自律〉だ。集団行動を重視してきたおかげで、近代においていかにたくさんのあやまちを繰り返してきたことか。

企業を内部告発した人物が以来長い年月、村八分同様の不当な労働環境に置かれていたことが訴訟によって報道にさらされたことがあった。集団においては内部告発した者が犯罪者なのだ。

会社や職場の人間たちやお客の気持ちを先取り的に察することを薦める人生訓話が日本人の集まるところに溢れかえっている。気の利かない人間は「ジコチュウ」だと罵られる。

「個人行動はいけません。何事も組織的にやるべきです」といまだにまことしやかに説教する「上司」。その組織のやってきたことといえば、失敗したにもかかわらず何度も繰り返す才気のなさ。個人を重視することは無政府状態に陥ることではない。

しかし個人の権利の主張には、おおらかな「個人の解放」というよりも、身勝手さが目にあまる場合が増えている。次世代のための環境保護など未来のために、自分の所属している集団や個人の利益を越えた自律精神が大切なものと思える。

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働くということは苦痛なのだ

1.爛熟そして衰退

近代の合理主義は「自由」を謳歌したが、不平等や不自由を生み出すようになり、深刻な貧困や犯罪の多発を招くようになった。現代社会でもそれは続いており、さらに拡大してむしろより大がかりになり、解決の緊急を要する問題となっている。

迷妄を断ち、理性的に行動することであった「自由」が、現代では大量消費という迷妄に振り回され、理性的行動とは似ても似つかぬものに変質してきている。

稀有な平等の時代になりながら、大量消費によって引き起こされる国内外の自然環境の破壊や、物が余って購買力が萎えるという食傷的デフレ、金融企業の低迷。そして有効に使われない税金。

税金の無駄遣いは高速道路という大きな項目だけではなく、生活レベルでも、地方自治体での予算消化のためだけの意義の感じられないイベントの連発が目の当たりであったりする。それなのに医療費値上げや障害基礎年金の切り下げなど、福祉予算の、上に厚く弱者に薄い配分。向学心の減退したインフレ状態の学生たちだが、このような矛盾に対応して新しい形の運動を担うときが来るかもしれない。

2.あなたはカント型かヘーゲル型か

カントは自由を個人の行動、つまり「自己立法+自己服従」というように道徳の問題とした。ヘーゲルはカントの個人的な自由のあり方を社会や国家のレベルにパラダイムを拡大して、立法と服従を集団的な行動に押し広げた。

私の行動はカント型かヘーゲル型かとあえて問えば、前者に近いのかもしれない。ヘーゲル的な集団的でダイナミックな発想は苦手である。個人的に満足しようとする小さい人間で、自己の良心や信念をいっそう洗練し文化の一端を担うことを望むだけである。ヘーゲルの弁証法とか社会解釈への躍動的な発想には、運動音痴なためか、協調したくても付いていけそうにない。

ヘーゲル型の人間は、新しい潮流に乗って一躍時代の寵児になれるだろう。カント型は、新しい潮流を気にしながらもマイペースで歩を進め、時代の隅っこで小さな花を咲かせるのが関の山と思われる・・・。

3.浮遊感がつきまとう

なぜ働くのか?飯を食うためである。けっして楽しいからではない。消費の自由と引き換えに苦痛に耐え忍んでいる。仕事に夢をいだける工夫をしたり、休日が増えてガス抜きができるようになったりして、基本的には拘束感に苦しんでいる。

毎日気まぐれな生活をしていたいのだ。「労働」と「仕事」は違うとか「そもそも人生は苦痛なのだ」とか、いろいろ癒しの言葉があるが、早く勤めの苦痛から解放されたいと願うばかりである。

戦後生まれの私だが「敗戦から立ち直る」という「戦後の呪縛」にとらわれて、当面の糊口をしのぐために、職種の選択を「なりたいもの」ではなく「なれるもの」をかりそめに選んで今日にたどり着いた。私の行動はなんでも「まにあわせ」的で浮遊感がつきまとう。できるだけ早く安らぎの揺籃に戻りたいと思うのだ。退職後の暮らしを極楽浄土と思いみなし、退職まで忍耐するのみ、というような気分なのである。なんだか昔の日本人と同じかなあ。もっとひどい状態だな。

その点、ボランティア活動は楽しい。社会的な使命と個人の権利が一体になっているという感じがする。浮遊感につきまとわれることなく、楽しんで事をなすことができる。

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自律について噛みしめる

1.人間は人格であり動物である、が・・・

「人間は人格である」というと、カントという西洋人の言葉とは思えない東洋的な匂いがする。「人格」とは人間が一生かけて追求していく道徳の第一の課題として取り上げられるものだと思っている。

人格はその人の生き様が表出したものである。人間はどのように生きているかを自・他によって評価され、また、そのような評価に飢えるものである。その飢えこそが社会的存在として人間をあらしめるものだ。

人格は社会によって功績や努力が評価された人間という仮の姿のことである。格付けは相場によって変動する仮性である。その対極には、精神と肉体に分ける二元論を踏まえた「人間は動物である」という言葉がある。思わずにじみ出る動物性という一貫してあり続ける真性である。

両者は相克しあって、仮性が真性に勝ろうとする衝動こそが人格を豊かにしていく、はずである。


2.やりたい自己 なすべき自己 とりなす自己

ルネッサンス以来、人間は「自由」を得たが、手にした自由の力に恐れ、自ら制御しようとしはじめたような気がする。ホッブズは人間の自由を認めながらも王にそれを預けようとし、カントは各個人自身が制御するよう戒めた。

制御を託された個人はどのようにすればいいのだろう。快楽を求めて最大限に<やりたいこと>をするために、不快な<なすべきこと>を最小限にする方法をまず考える。また、両者の境界をあいまいにしてしまうということもある。<やりたいこと>を<なすべきこと>に努めて加える。あるいは関連づける。<なすべきこと>を<やりたいこと>のように思い直す。<なすべきこと>ばかりをするという逆手もある。しかし、どうしようもない場合は逃亡するしかない。どちらも消えてしまうということは決してないのだ。


両者はなかなか歩み寄らず背を向け合いがちだが、第三番目の「自己」が登場し、スーパーバイザーとしてとりなすのである。


3.自立と自律

「自立」とは、行動の手段を自由に選択できることである。誰の所有物でもなく誰にも依拠しないで、自分の思うままに行動できることである。もちろん、無鉄砲な行為を勝手にするということではなく、状況に応じて道徳法則も選択肢に加えることができる。

「自律」とは、むやみやたらに自分の欲望をまきちらすことを自ら抑制し、定言命法(無条件に~せよ)で言い表される道徳法則に常時従うことのできる心のあり方をいう。自分をとりこにするときどきの迷妄に固執し振り回されることから自由であり、行動の基盤に公平や平等や社会の利益を優先して考える発想を据えていることであろう。

大量消費社会の今日、噛みしめなければならない言葉である。「論語」の「為政4」に「七十而從心所欲、不踰矩(しちじゅうにしてこころのほっするところにしたがへども、のりをこえず)」とある。これを自律という。「高邁なる人格」とはこのような精神の持ち主のことを称する。

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大きな城よりも、一人一人小さな城を持つべきか

1.旧ソ連邦の瓦解

世界を終末に導いてしまいそうな老人指導の閉鎖的国家ソ連邦から、イキイキと
した柔軟な思考の指導者ゴルバチョフが現れたときには狂喜したものだ。しか
し、彼が経済を立て直そうと支配のタガを緩めるとたちまち連邦は瓦解してしま
い、日常におよぶあらゆる価値が崩壊し、テロさえ発生し、自由の使者として歓
迎されるはずがむしろ自国民には憎まれてしまった。彼はホッブスやマキャベリ
を学び損ねたのではなかろうか。

ゴルバチョフ以前のソ連邦は社会主義を理想と掲げ、人間の平等を標榜しながら
も、主権は共産党書記局の十名くらいの老人に握られ、周辺の国々を含め支配さ
れていた。まさにホッブスの理念の体現である。そこには平和や秩序があったの
だろうか?軍隊や秘密警察によって維持されてはいたが、安寧の代わりに民衆は
「たえざる恐怖」にさらされたのである。人間のエゴイズムを制御するのは王様
の力では足りなく、むしろ人間相互の力によらねば間に合わないのである。

2.宵越しの金なんか気にしたくない

なんでも護衛船団方式だった日本が行革や経済の立ち直りを目指して次々と護
衛を取っ払い、企業ばかりでなく、国民も少しずつ衣服を剥ぎ取られている。年
金の支給が危ぶまれ、医療費も漸次値上げされている。

格別マネープランを持たなくてもお上が生き方を決めてくれていたため、仕事に
没頭できていたような戦後。高度経済成長はそんなところが支えていたのではな
いだろうか。ところが現在、人生のすべてを各個人が一つ一つ判断していかねば
ならないようなところに来ている。難問に立ちふさがれてやる気をなくしたよう
にフリーター志向の若者たちが増えているのは、そんなところに起因しているよ
うな気がする。

ホッブスを中央集権のパソコン通信型、ロックを分権していくインターネット型
としたい。すると後者が時代の趨勢であるわけだが、わたしは、将軍様のお膝元
で庇護されて、宵越しの金は持たねえと見栄を張る職人なんかに憧れている。

3.できれば感情の教育がほしい

「感情によって理性を完成させる」ことを教育の目標としたルソーだが、理想的
過ぎて現実的にはまどろっこしく、公教育の間隙を縫うフリースクールで目指さ
れるものという感じがする。スピードを求められる近代以後、悠長な芽生えを待
つより、限定された期間での到達を目指して「理性によって感情を抑圧する」生
き方を叩き込まれる。それが産業戦士に求められることなのだ。合理的に考え行
動することが合理的な学問の構築につながり、それが知的なことだとされてい
る。しかし、そんな教育を受けた者たちの中には、案外、発育不全の未熟な感情
を隠し持ってしまったりする。

第三として「感情によって感情を抑圧する」という教育もある。いわゆる「大人
の勝手な価値観の押し付け」に終始するもので、子どもたちとの埋めがたい溝と
なる。たとえば「茶髪はやめろ」という教育的指導など子どもたちは本気で受け
入れることはできない。なぜなら感情的にぶつかるだけで、豊かな感性が微塵も
なく、合理的理由も希薄だからだ。

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理性を超えた思考

1.同じ「考える」でも違うこと

数学や英語の問題を考えることと、人生上突きつけられる迷いや不安について考
えることは同じものだろうか?何らかの結果を出そうとあれこれ思案することは
同じだ。優等生でない限り、解答が得られるかどうか定かでないことも同じだ。

しかし、このテーマを俎上に載せた最初から両者には違いがあることが直感的に
分る。際立って違うことは、第一に、英語や数学の問題の解答はおおよそ決まっ
たものがあり、それは不変的である。だが、迷いや不安に対する解答は多様であ
り、変化発展する可能性も大いにある。

第二に、生身に関わっているかどうかだ。数学や英語の難問を考え悩むことと、
数学英語の問題をやっている場合かどうか、あるいは解答できない自分の愚かし
さを考えることとの違いである。客観的と主観的の違いともいえる。主観的なは
ずの迷いや不安について考えると、客観的な生身にまで関わってくるのが特徴で
ある。

2.ボーダーの人

近代的な人間は「中間者の不安」に揺れ動き続けた。神と自然の間に立って。私
もまたブルジョアジーとプロレタリアートの間を揺れ動く小ブルという「ボーダ
ーの人」なのだ。また、健常者と障害者の間に立ち、生来的に、そしてボランテ
ィアとして板ばさみにあう。多数者の利益を優先しろという主張と少数者を切り
捨てるなという主張の間で、健常者のはみ出し者として右顧左眄する憐れな存在
である。人間と妖怪のハーフ「ゲゲゲの鬼太郎」もどちらの利益を守ればいいか
迷う中間者である。

中間者は自分の拠って立つ基盤がしきりに揺れ動く。どちらでもいいのだが、定
まらない自分を良心が許さないという宙吊り状態に悩み、不安がる。

自由の身というが、どこへも動けない。確固としたリアルな基盤が最初からない
が、退廃と衰退の未来に行き着かないために、様々な元気の出る幻想を準備し続
けなくてはならないのである。けれど、思い抱く幻想によってかえって自分を見
失うということも言えるのである。

3.包括的な思考「思惟」

英語や数学の難問は宇宙に匹敵するものだろうか?宇宙に繋がっていることは間
違いない。

人生上の問題は、その点、そのものが宇宙であるといえる。ここでいう宇宙とは
デカルトやパスカルのいう延長でしかない宇宙ではなく、「魂のある宇宙」とで
もいうものである。

英語や数学の問題には「正解」がある。これが理性のパラダイムである。延長と
しての宇宙を考えるにはこれで間に合うかもしれない。だが「魂のある宇宙」を
考えるにはそれだけでは足りない。全身で宇宙にぶつかり、散るなり、融合する
ダイナミックな思考が必要なのだ。

理性はジェントルマンである。それは立派だがどこかこそばゆい。同時に偽善の
感もまぬがれない。小ざかしい理屈で権利ばかりを主張する理性的思考を凌駕す
る、思慮の行き届いた包容力の大きな思考「思惟」こそが、多岐に発展する現代
理性を超越できる曙光である。

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経験と数学

1.実験的方法は間違いないのか

一つ一つ確かめながら,真理を積み上げていく,こういう経験的な方法は受け入れやすい。しかし,前提が問題ではないだろうか。自分たちに役立つものだけを得ようとして,絶妙なバランスに立っている自然の全体を見ず,有用なものだけを抽出しようとするのは,本来の働き・方向性から逸脱してしまうことになるのではないだろうか。神のような目で見ることをせず,子どものような目で見る方法に近い。

子どもの探究心は旺盛で誰にも止めることができないものだといって,子どものような科学者の核開発に手をこまねくばかりでは,滅びも人間の定めとシニシズムに陥ってしまう。

例えばピアニストに,キーボードに慣れているからと毎日ワープロで他人の文章を清書させてばかりいるとすれば,芸術より事務はある意味で有用かもしれないが,ピアニストのほんとうに有用な活用とはいえないだろう。とはいえ,動物実験をかわいそうだからやめろとはいえない。地球の資源を人間だけが使ってはならない,などともいえないのである。


2.自然の特徴は豊穣である

デカルトが「考える自分」に気づいたことは偉大なことだ。それによって自分が「考える自分」と「考えられる自分」に分裂し,自然から脱却した自分が自然に属する自分を見下ろすようになった。自然が家畜や衣料に特化されて人間に隷従したように「考えられる自分」もまた隷従することになったのだ。無駄な脂肪は切り捨てられ,記録を伸ばすために肉体改造が行われ,激しいビジネスのため忘れられた肉体が発作を起こす。

人間の場合は肉体のみならず,知性も心性も肉体的に特化され,会社機構などに組み込まれる。これを「歯車のひとつ」「社畜」と例えられる。

「延長」という表現はまことに物質的ないい方である。自然は無機質な物量の塊なのだろうか?自然は「延長」という性質のほかに,連鎖,共生,変態そのほか様々な姿があるが,こういった形態を「延長」という言葉は表現できているのだろうか。デカルトのイメージした「自然」と現代の日本人がイメージする「自然」は違っているとしか思えない。自然の本質的特長は「延長」ではなく「豊穣」である。


3.技術の進歩に貢献した方法

テレビ番組で大槻教授の合理主義的見地とオカルト信望者たちのののしりあうのがなぜおもしろいのか。出演者たちの必死のバトルが痛快であり,夢を見せられ,現実に引き戻されるゆりかご状態が心地よいからだ。哲学も空想論を避けるためにバトルを繰り返し,最強の論者になったのがデカルトなのかもしれない。

物心二元論のお墨付きによって,魂のない物質である自然は自由に操作ができるものとして迷妄に惑わされることなく研究,開発ができたこと,その手法に数学的な論理を用いたことは,一つのビッグバンに相当するほどの影響力があったことだろう。その延長が大槻教授はじめ現代人の考え方の基本とまでなっている。

「経験的合理性」すなわち実験的手法による結果は,真理解明とまではいかなくても人々を納得させ共有のデータとなり得るもので,「数学的合理性」はそのデータに基づいて推理することができ,計り知れない生産性の基礎になる。それは科学を発達させ,医学技術の進歩に貢献し,環境を汚染したが警鐘を与える論拠にも寄与した。

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ルネサンスとレホメーション

1.ヒューマニズムに疑問を抱く

合理的精神とはなにか,と考えるときがあった.合理的に考えるというのがすご
くすばらしいものに思えていたのだが,ある時,本当だろうかと疑問に思えたの
だ.合理的精神とは,近代ヒューマニズムから来ているという.「ヒューマニズ
ム」という言葉は「人間主義」ということだとすると,人間の都合に基づいて物
事を考える,ということなのだろう.特に,人間の理性によって考えようという
ことだろうか.

「人間」というのは,個人個人の頭脳によって思考することを尊重する個性豊か
な存在だが,個人的な思考でも妥当な思考なら,その所産は全体で共通,共有で
きる知的財産になる.個人的思考とは,考える人間の個性,例えば性差,信仰,
身分などの立場によっている.けれど妥当な思考なら,一人一人の個性によって
発想されながらも全体でそれを受容することができ,拠って立てる結果が生み出
せるはず.こうして人間の知恵,理性は神を凌駕するほどに賢いものとして,少
しは失敗もあるかもしれないが,それを自ら克服することができ,より暮らしや
すい,幸福の充満した世界を形成していくことができると信じられるようになっ
た.

ところが,私はこのような合理主義やヒューマニズムの考え方に限界があるので
はないかと思えるようになったのだ.歳をとると共に疑問が少しずつ胸中にもた
げてきた.

本来、人間中心とは、人間の持つ理性に基づくものであったはずである。ところ
が近年は、人間のエゴイズムでしかなくなっている「自己中心主義」が横行して
いる。こんなヒューマニズムにはとても付き合いきれないという思いなのである。

2.イメージされる外向性と内向性

ヒューマニズムというと,どうしても背景にルネサンスの歴史が大きくイメージ
される.レホメーション,つまり宗教改革も「そういえばそうだった」という感
じだ.二つの共通性は「個人」性にある.ヒューマニズムの反対のものとして,
例えば古代エジプトの奴隷たちによるピラミッド建設のイメージが私としては象
徴的なのだが,他に戦争などがイメージされる.あるいは宗教や迷信による人身
御供.一部の支配者や全体が個人より優先され,個人の生き様などアリに等しく
簡単に押しつぶされる.ヒューマニズムはそれら迷妄に対する最強の思想だった
と思う.ルネサンスとレホメーションは全体主義に対する個人の目覚め.特に中
世のカトリックへの対抗勢力.

相違点はどうか.ルネサンスはイタリア,レホメーションはドイツと,運動の沸
き起こった風土の違いが感じられる.前者は理性の働きかけを心の外へ,対象を
自然へ向けていき,自然と人間を比較して人間の独自の価値,自然からの優位性
を見出す.後者はより心の内へ,個人の信仰を求めていくもの.両者は個性の発
露となる外向性と人間の平等性を確かめる内向性とに分けられるよう気がする.

「浪費」と「禁欲」という大きな違いも感じられる。具体的にいうと前者は「ぼ
くはこんなこともできる.聖職者たちに遠慮する必要があろうか」という自信.
後者は「ぼくも聖職者たちと変わらない.自分のやっていることは間違いじゃな
い」という自信ではないかと思う.

3.ルネサンス的人間像とレホメーション的人間像

私が抱く「ルネサンス的人間像」とは,可能性を求めてどこまでも伸びやかに個
性を発露していく者たち.「ホメーション的人間像」とは,コツコツと勤勉に禁
欲的に働く者たち.

人間の快楽を自由に謳歌する者と快楽原則に従わない自由を選ぶ者.変なたとえ
だがルネサンス的人間は「赤ちゃんをたくさん作ろう」という自由を選び,レホ
メーション的人間は「産めよ増やせよ」の聖書の言葉を,「作るのは赤ちゃんで
はなく製品である」という自律的自由を選び労働に身を捧げ、物質の生産活動に
励むような人.

私は自由を得たいと思うとき,決まってなにか加算されるようなことをイメージ
してきた.ところが,しない自由もあると知ってかつて驚いたことがある.それ
が自律的自由というものだった.その考え方はとてもすがすがしいものに感じら
れた.

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日本人はいつでも静かにしていたい

1.日本人とは滅ぶことと見つけたり

どんなとき自分が日本人であると感じるものだろうか。振り返ってみよう。自分
が日本人であってアフリカ人やアメリカ人とは違うという自覚を持つことがそも
そもあまりないので、なかなか思い当たることがない。あえていえば久しぶりに
白いご飯とみそ汁、漬物、魚といった組み合わせの食事をすると、日本人だなあ
と思う。食べ物にお国柄がよく出るものであるが、日本人はおいしいい食べ物に
渇望していて、世界中の味覚を取り入れ、何でもよく食べる。人とのつきあいで
も柔軟に対応し、誰とでも仲良くつきあおうとする。こういうことは日本人でな
いとできないのではないか、と感じる。

また、ちょっと申し上げにくいことだが、映画で特攻隊の飛行機が敵艦に体当た
りしようとする場面や仁侠映画で、主人公が一人で敵陣に殴りこみに行く場面に
ひどく感動し陶酔する。こういうのを「滅びの美学」と世間(60年代)ではい
われていたような気がする。つきあいで柔軟に対応できるのも自分を滅ぼしてい
るからかもしれない。長いものに巻かれているのが好きだ、ということもある。
世間体や秩序を重んじるからかもしれない。

こういう心的作用をマゾヒズムというのだ、と指摘されそうだが別に恥ずかしく
はない。集団や秩序を重んじながらも、ままならないことがあると自分だけ犠牲
になってみんなを守ろうとする。この自己犠牲の精神が日本人の美徳と感じてし
まうところに「ああ、おれは日本人だ。外国人には真似ができまい」とシミジミ
感じてしまうのだ。


2.ローカル路線の生きかた

日本人は他者と距離を取ることをよそよそしいものと思っている。「おちょこ」と
いう小さな盃をやり取りしてお酒を酌み交わす、このような行為を喜んでできる
ようになると信頼関係ができると信じている。共に風呂に入ってすべてを見せ合
うことによってなんらやましいことはないと表明して親近感が生まれると思って
いる。常に挨拶や贈り物を繰り返すことで距離が出ないようにすることが大切と
される背景には、距離が出ることが不安なのだ。

どうしてそんなに身近になっていたいのか。それは保険代わりだ、といえよう。
あまり当てにはならないが、日本人はお金や物よりも頼りになるのは人の心だと
気付いていた。自分が困ったとき無償で当てにできる人を作っておくためにはな
んだってする、そんな涙ぐましい取り組みをふだんからしていることが「大人の
たしなみ」と心得ているのだ。人同士の付き合いもそのように間に合わせなの
だ。間に合わせだから、距離は縮むが距離はいつまでもあるといえる。よそよそ
しさは避けたがるが、ほどほどの距離は残るのだ。

使い捨てと間に合わせが発想の基底にあるものだから、原則やロゴスは育たな
い。さしあたっての現状を改善できればいいので、真実を解明しようとする長距
離の路線は敷かれない。間違いがあれば水で流して現場を去るのみである。太平
洋戦争敗戦後、この日本人の特徴を大いに発揮してきたといっていい。


3.日本は善人の世界なのだ

誠実で人がいいと感じられる人はたいがい土着的日本人である。つまり日本は極
東のパラダイスだった。下町や田舎にはいまだにそれがある。住民は直感的な思
い込みで自分なりにいい行動をとろうとする。それがどんなに一人合点な行動で
も、身内たちならあからさまには指摘しない。婉曲な回避を図るだけだ。コミュ
ニケーションをよくとり、集団的知恵を積み重ねる。永遠に続くと思われる一つ
のパラダイムを壊すまいと、根本的な論議は避け、技術的な情報交換になりがち
なのだが。たとえマイノリティが存在しても包み込んでしまう寛容さがある。善
人の世界なのだ。

このような世界のどこに問題があろうか?もし問題と成るようなことがあれば、
それは外界の急変の波及ということだろう。それがない限り、自他の明確な区別
もなく、自立的な変革などありえないから、静かに目に見えない形で全体が腐朽
していくだけである。

もし外国人や障害者がブラリとやってきて一人暮らしを始めたら、排除などせ
ず、みんなでよってたかってお節介し、町の一員としての役割を与えて居場所を
作ってやり、緩やかな形で町内のやり方に従わせようとするだろう。それに従い
さえすれば再び町は太平の眠りに着く。ただ、例えば殺人事件が起きたとする。
調査機関はその町の人間を疑うよりも、よそ者を真っ先に捕捉するだろう。人種
差別や迫害が生じ、冤罪が起きる可能性がある。あるいは誰も調査に協力しない。
自他の区別のあいまいな領域でどうやって証言できようか。しかし時間がたてば
みんなは忘れてしまう。忘れるほど事件は起きないのだ。

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肉体と人格

1.人格も肉体に支えられているのでは?

西洋では人間も自然と同じ機械的とする考え方と,人間が自然から際立つものと
して人格をもつ存在とする考え方が矛盾もなく並存した。そして人格は神のこと
を考えたりすることができる崇高なものだから手を加えてはならないが,肉体は
自然(生物)と同じであり機械的だから悪い部分はドシドシ手直しをしてもよい、
と考えることができるようになった。自らの肉体を突き放すことによって観察や
分析ができ目覚しい医学の進歩に繋がった。

この考え方は現代でもまだまだ通用するものである。人間は神の姿に似せて作ら
れた自然の中で図抜けた存在だから,世界は人間が中心となって自然を都合よく
開拓してもよい,というのと同じなのだろう。人間の中でも肉体は精神に従属す
るという構図なのだ。

理性とか精神など,観念を生み出すところも肉体であることを考えなかったため
に起きたのが,人格と肉体,人間と自然を分離する考え方なのだ。

2.人間的な配慮とは納得のいく死の迎え方である

ガン患者の末期はモルヒネ漬けで意識朦朧となり,身体は痩せ細りミイラ化す
る。それでも入室した者に挨拶しようとする力がある。だが医者は「もう,よろしいでし
ょうか」と家族の同意を取り付けて生命維持装置を停止するのだ。遺族は激しい
自責の念にとらわれる。医療現場における「人間的配慮」とは,クライアントへ
もさることながら,家族へ向けられたものでなければならない。悲しくとも納得
のいく別れのためには入念な段取りが必要なのだ。

いかに手厚い看護をしたか,愛情がどれだけこめられたか。人によっては高額の
最新の医療技術を惜しみなく施すことであり,つきっきりの介護であり,種々の
セラピーである。
どこの医者もガン告知をしているのだろうか?知らない方が思わぬ休養を得たと
ばかりに動揺もせずに療養期間を集中して活用できよう。知った方は最期まで不
安で心乱れ続けるかもしれない。けれど最後の最後にカタルシスを感得してきら
び輝く黄金卿へ没入できるかもしれない。

自分の死を知ることから出発するのが現代人の人生に求められるのなら,彼は告
知されたときに人生を歩みだす。かつてない濃厚な時間となって。

3.日本的「個人」とは水のような感性の一分子

以前ほどではないが「人間は一人では生きられない」という言葉をよく聞く。こ
の言葉に「日本的な個人」が言い表されてはいないだろうか?続けて「社会人の
一人なのだという意識を持て」というのもある。ここでいう「社会人」とは,社会
に適合して貢献する人間というものだろう。一定の枠組みの中で役割を分担し
てスムーズな運営をし発展させること。そのために相手や全体の心を感じ取り配
慮しようとする。また美学者であること。整然とした行動を好み,それを相手や
全体にも求める。雰囲気にそぐわないと不愉快になる。鋭敏な感性だけで社会を
構成しようとする。

西洋のようなロゴスはここにはない。ロゴスは積み重ねられ分割することもで
き,個人がそれぞれロゴスを持つこともできる。日本では感性を洗練することは
できるが分割はできない。みんなが一体となって水も漏らさぬ美の完成を目指
す。個人的なロゴスを持ち出すスキマはそうとう窮屈なものとなる。

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自然と技術

1.機械と命を持った生物は違う

「自然は機械と同様,部品が複雑に構成されているもの」という機械論的自然観
が西洋に発生し近代化が進んだ.奇々怪々な自然現象も観察し分析すると、法則に
よって成り立っていることが分かった.法則を活用すれば自然は神秘なものでは
なく,むしろ人間がよりよく生きるために役に立つ.そのように確信して科学は
著しく進歩した.極端にいえば人間も機械であるという.

自然やそれに内包されている生物にも法則があり,システムがある・・・この考
えは間違っていない.しかし,決定的に違うのは機械と違って生物は「命」を持
っているということである.人間は自分の姿に似せて神を創り,自然を模倣して
機械を作った.しかし,自分を創ったものの正体を知ることができず,機械に命
を吹き込むことはできない.

「グータラ亭主にしっかり女房」のように,精密なシステムは,気まぐれな命を
支えているものなのだ.自然を痛めれば山の神は怒りだす・・・. 

2.なんのための技術か

科学は自然や人体を構成する法則を掴むようになると,どんどんカスタマイズし
はじめた.人間が生活しやすくなるための追求の情熱を幸福論的に誰もはばめな
いうちに,臓器移植や遺伝子治療などタブーの領域を侵食するところまで来てし
まった.

もっとも医療行為は出発からタブーとの戦いだった.迷妄には華々しい勝利を収
めた.人の腹部を切開して化膿した虫垂を切除したり,血を分け与えたりして,
人間は自分の命をより堪能することができるようになった.しかし,生命維持装
置を装着してただ植物的に生かされているだけの存在は,命を堪能しているとい
えるだろうか?胎児の段階で遺伝子をチェックされ出産を断念されては,胎児は
人生を謳歌することができないではないか.

身体を機械的と捉えた合理主義によって迷妄から脱し,身体は機械だからと再び
迷妄に突入しようとしている.命を深く輝かせるための世界観を忘れてはならな
い.

3.自然と心情

「自然」を機械のようなシステムを持ったものと捉えてタブーを気にせず,どし
どしカスタマイズすることが「近代合理主義」だと思う.処女地の「自然」を侵
奪し,土足で踏みにじる合理主義に抵抗したのが「心情」だった.

心情こそが,原始以来の人類の記憶を蓄積してきた無意識に直通する出先機関.
時には理屈を無視する迷妄であり,時には結果として正しい予言を下したりす
る.個人の心の底から発するものであるが,広く連帯し集団化もする感情.

自然は心情の源である.原風景であり,神秘であり,宇宙であり,神のおわすと
ころである.自然の中にひとり居続ければ人はきっと発狂する.無意識が意識化
し,時空の歪んだ幻視が誘惑し彷徨を促し,それまで培われた悟性はすべて消し
飛ぶ.恐怖におののく一介の修羅となって自然の真っ只中に誘導され,悲鳴を上
げ,土まみれになりそして雑草になる.

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環境はどのように守るのか

1.産業廃棄物は山に返す自然観

私たちは伝統的に自然を慈しんできた。生活にたくみに取り入れ、人生さえも四季とともに巡るというように、自然との融合が美であり、哲学だった。しかしそれは、あふれるばかり豊穣な自然からの一方的な分与というものではなかっただろうか?

きびしい自然条件の中にあれば、自然と人間の共存、育成という考えが含まれたと思うが、古代の日本の自然は人間を圧倒していてそんな気配りは必要なかった。都さえも使い捨てにしたのだ。恵みは惜しみなく享受し、終わると捨てるだけでよかった。

捨て場の海や山は宇宙のブラックホール的な領域だったから清められることはあっても、汚れが滞るなど考えられなかった。日常のゴミや働けなくなった老婆などみな誕生の源へ返上した。膨大な産業廃棄物も山に返せすという発想に繋がる。今日の自然保護という観点からはこのような自然観はまったく容認できないものである。


2.縁台将棋が基本の風景

自然が衰退して人類が出現したとしか思えない。そして人間の生存条件が自然の衰退にあるなら、共存はありえないことになる。けれど、対立を緩和し衰退の進度を緩慢にすることならできるはずだ。生存条件が死ぬほどきつくても彼方におしやった自然を受け入れることだ。

人間が共存を図るなら、せいぜい草地を足で踏み荒らし、果実を腹いっぱい食う程度の破壊や浪費にとどめるしかない。自然保護のためには「自然からのいただきものは粗末にしない」という考えのもと、物を徹底活用し、返すものは炭酸ガスだけとする究極のリサイクル技術の確立をめざすことだ。

当面は戦争をしないことから取り組む。政府機構を小さくする。最終的には都市国家に分割する。それぞれ自給自足の道を模索し物流を抑制する。休日はレジャーで自然を荒らすようなことをせず、近所の人とうちわ片手に将棋をさす。それが自然との共存の基本的な風景である。


3.自然は自然のままに

地球の健全な営みを未来に継続していくためには現在の責任は重い。衰退した環境をどのように回復させるのか、二つのやり方を比較してみよう。

「環境保護」という言葉は保護指定区だけ自然を存続させていくような、小さなイメージである。だが、方法的には保護対象の自己治癒力、自然回復力を尊重したもので、人間は見守るだけの無難なやり方である。

「環境創造」は大がかりなプロジェクトをイメージし、綿密な計画と高い技術、周到な管理体制によって、まるで絶滅した種まで蘇生させるような夢のある言葉である。しかし、そもそも「創造」が自然を破壊してきたのだ。神を怖れぬ傲慢さという点では従来のあり方を反省していないオポチュニズムである。フランケンシュタイン博士の怪物の地球的拡大という途方もないリスクが潜んでいる。

自然と人間は共存できないのだ。自然のバランスを崩すような人間の介在による「創出」はせめて地球以外の場所で行使してほしい。

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自分も死ぬのだ

1.人生は本当に一度しかないものだろうか?

脳死移植には慎重なのに「あの世」など全然信じられず、死をどうしても<終着点>と思ってしまう。だからゴールの見える年齢になった現在、どう生きようかとジタバタともがいてしまうのだ。

科学的な考え方を学校で教わったから死を<終着点>と思うようになったのではなく、伝統的な考え方だという。その考え方は人生を現実主義的に捉えることであり、現世にいるうちに余裕のある生活をしたいがために日本人は一生懸命に働いてきたといえる。

ところで死を<通過点>と思うのと、<終着点>と思うのではどちらが冒険できるものだろう。前者と思うのであれば「より良き来世のために惜しむことなく命を懸けてみよ」、後者なら「一度しかない人生だ。悔いの残らないように思いきってやってみろ」といえる。しかし、一度しかないのならやはり失敗はしたくないもので慎重な行動になりやすい。


2.四季という生涯

太古の人々は想像もつかないほど自然のままにいたのだだろう。四季の風景と一体になって生き、そして死ぬ。あたかも春になって新芽を吹き、冬を迎えて葉が散るのと同じように死んだのだ。血脈の流れに壮大な夢を託すというわけでなく、ただただ円環する世界の一巡として。先に逝ってしまった長老たちは日常空間のいたるところで思い出以上の陰影を留め、語りかけさえする。彼らは過去を蘇らせ現在の生者に挑発する、と思われた。

しかし、死者になった自分が現在の自分にささやくということだけはあまりに危険すぎて容認することはできなかった。それは巫女に任せるしかなかった。未来は憑依による託宣でしか伺えないものとしてタブー化し、もっぱら現在の場に生きた。

一年で一巡する日本の風土では長期的な展望に立脚した計画など苦手だったのかもしれない。未来に形を遺さない使い捨て文化は今日まで連綿と続いている。


3.社会や神ではなく自己責任で死ぬこと

私は生きているのか、本当は死んでいるのではないかと考えたことがある。苦しんで死んだのならともかく、思いがけない突発的な事態だったら気付かずに死んだということも考えられるような気がするのだ。

例えば1999年、巨大彗星が地球に飛来。各国の政府は混乱を怖れて秘密にしたため、人々は何も知ることなく一瞬のうちに蒸発した。そのため、人々は生から死に転移したことを実感しない。慣性の法則のように生の感覚のまま死の世界で日常を生き続けているのである・・。

このような境界の定かでない世界を浮遊しているという感覚をなぜ抱いてしまうのか。家族や社会が自分を手厚く保護してくれて依存しやすい性癖になっているからであろうと思う。多様な選択を通して自分の人生をビルドアップしていく現代では、自分の死を認めるところからスタートをきらねばならない。人生は自然ではなくエゴの塊であることを自覚していかねばならないのである。

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私たちはどう生きるのか

1.人間はどれほど賢いのか?

生命誕生の操作、脳死の人の臓器利用、これら生命の操作は、よりよい医療を目指してきた結果であり、一歩一歩人々の願いを叶えようとしてきた進歩の賜物であると信じる。と同時に、科学つまり人間の知恵の範疇にいよいよ取り込まれたかという居心地の悪さを感じもする。生命がずいぶん小さくなったものだという感じなのだ。

及ばないことは神に任せるということで諦めていたはずが、生命の誕生から死まで人間だけでこんなにも捌いていいのだろうかと不安を感じる。それは神の庇護から離れようとする自立不安というものなのだろうか?

もてはやされた科学技術が時を経て、環境破壊や人間の命まで脅かす環境ホルモンなど化学物質の害を知ると、取り返しがつかないことにならないよう注意深く扱って欲しいと願う。人類滅亡を眼前にして、もっと賢い進歩の道があったのではないだろうか、と後悔するようなことだけはあってほしくないと願うのだ。

2.脳死による臓器移植

脳死による臓器移植に賛成か反対か、こう直面させられたら自分はどう対応するだろうか。まず、自分は臓器を提供できるだろうか、と考える。頭では「してもかまわない」と答えるが、心ではあまり快い感じがしない。

患者が健康の回復を願って臓器提供を待ち望んでいることを思うと、人の役に立つことならそのまま植物状態で朽ちるよりもいいのでは?と潔さに心がはやる。

けれど、人知の計り知れない領域がまだあるのではないかと、情緒的には不自然を感じて踏み切れない。脳死を死とするのは英断ではなく、サムライ的行為という感覚なのだ。

人間の底知れない欲望をどこで堰き止めるのか、いよいよ土壇場に来たかという感じがする。臓器提供はやぶさかではない。けれど心臓の停止まで待ってくれ、というのが本当のところだ。したがって、脳死段階での臓器移植には賛成できないというのが私の結論である。

3.私たちはどう生きるのか

神の権限を人間が奪取すれば、地球を妖しげな形に変貌させてしまうのは時間の問題だ。フランケンシュタイン博士の創造した怪物たちの棲息するところとなるだろう。タブーをとことん破り捨てる世界とは、豊穣の世なのだろうか。荒涼としたサバイバル風景しか見えない。

臓器移植は人肉食に近い。生きるために人間が人間を喰らうのはやむを得ない場合もある。だが、食のサイクルをストレートにしただけと割りきるなら、見かけはヒトだがメンタリティーは博士の新創造物と同じだ。
私たちは将棋の駒のように生から死まで人間の采配によってゲームとして生きていくのであれば、神より奪取した重責にいつか自らクラッシュする時が来るだろう。

対照的に、限界ある自分の生に諦念を持って淡々と全うすることは「停滞」のように見えるが、精神的領域が開拓されるはずだ。

「一期一会」など、私たちが伝統的に培ってきた膨大な人生教訓の蓄積を掘り起こしてみたい。

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