2009年2月27日 (金)

映画 スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師

スウィーニー・トッド  フリート街の悪魔の理髪師

アメリカ
2008年公開
監督: ティム・バートン
出演: ジョニー・デップ, ヘレナ・ボナム=カーター, アラン・リックマン, ティモシー・スポール, サシャ・バロン・コーエン
時間: 236 分

 どーしても濱田マリに見えてしまうパイ屋の女主人は悲しく滑稽だ

ブロードウェイ・ミュージカルの映画化。19世紀ロンドン。
自分の妻と子を横恋慕した判事に無実の罪で囚われの身になったスウィーニー・トッドが復讐の鬼になって街に戻ってくる。
トッドの殺した男たちはトッドを好いたパイ屋の女によってミートパイにされる。その味たるや最高のものとなり、店は繁盛した。
しかし女の嘘によって、トッドは最愛の妻を殺してしまうのだ。
映画は二段締めによって悲劇を深めている。判事の謀略で妻子を奪われ、女の嘘で妻を殺してしまうのだ。
それにしても悲しみが、そして人肉食のおぞましさがあまり伝わってこない。それはなぜか。歌の魅力によるものだろう。歌の華やかさ。これがすべてをコーティングして花の乱舞しているうちに舞台は終わってしまうのだ。
「シザーズ・ハンズ」以来の悲しく、残酷で、コミカルな映画が戻ってきた。ティム・バートン監督と俳優ジョニー・デップの初心を忘れないココロが悲しく美しい。

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2009年2月24日 (火)

映画 パンズ・ラビリンス

パンズ・ラビリンス(El laberinto del fauno)

製作国 メキシコ  スペイン アメリカ 

監督 ギレルモ・デル・トロ 

公開 2007106 

上映時間 119 

  

   非情と幻想と人情の織り成すコラボ映画

舞台はスペイン内戦。1944年。日本が敗戦した年は1945年。選挙で正当に政権を確立した人民戦線の左翼政権と、その転覆を謀った右翼のフランコ派による内戦だ。

そのところを舞台にした作品では「誰がために鐘は鳴る」「ミツバチのささやき」が思い出される。

「ラビリンス」というとお子様向けのファンタジーという感じがする。パッケージからしてもその思いを固めてしまう。まったく予備知識のないままなにげなく見ていて、意想外の展開に感動を倍加することが、気まぐれな私にはときどきある。まさに本作品はそのような楽しい発見に遭遇するもので「これは大人の映画だったのか!」と歓喜してしまうのである。

本作品はけっしてお子様向けのものではない。むしろできればR―13にでもしたほうがいいと思うくらいだ。ヴィダルが無抵抗の農民の鼻先をワインボトルの底で打ち潰し、苦しませてから銃で撃ち殺す。同じくヴィダルによる拷問で抵抗勢力の若者がボロボロにされる。これらはけっして未成年者たちには見せたくないものだ。

その軍人の非情な行為が少女の幻想シーンを際立てるし、抵抗勢力の人々の心をいっそう温かく感じさせてくれる。非情と幻想と人情のトライアングルなコントラストが腹の底から胸に向かってジワジワと感動のバイブレーションを立ちのぼらせてくれるのだ。

ある意味、軍人役のヴィダル(セルジ・ロペス)の名演技といえる。非情残忍で人間の心なんてまるっきり理解できず、軍人たるものの生き方を偏狭的に信望している姿が心を掴む。

このヴィダルと美少女オフェリア(イヴァナ・バケロ)がキャラ的には対等に競り合っているのだ。オフェリアの魅力は天性のものであり、年齢的なもの(ロリータ・エイジ)であるのに対し、セルジ・ロペスの演じるヴィダルは俳優としての鍛錬の見事な成果である。

大人に見せつける少女の幻想世界。かつてこのようなコラボ映画は私は思い出せない。子ども向けと誤解されやすく、それによって手に取らない大人、間違って手にしてしまう子どもがいるだろうと思うと少し残念である。

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2008年9月29日 (月)

映画 毛皮のエロス        

毛皮のエロス/ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト
AN IMAGINARY PORTRAIT OF DIANE ARBUS

制作年:2006

    女流カメラマン誕生秘話

なんて紛らわしい邦題だ。間違いではないが、そしてニコール・キッドマンが主演なのだから見当がつきそうなものだが、悲しい男の性、見てしまって後悔し、そして期待とは裏腹な新しい発見をする。
安穏な日常に飽き足らなくなったカメラマンの主婦にして毛皮商の両親を持つダイアン、じつはディアンと発音するのが正しいのだが、彼女は不思議な隣人に興味を持ちその世界にハマり込んでしまう。
ちなみにDIANEは、イギリス式に発音するとディアン、どういうわけかアメリカ式になるとダイアンとなる。モビールとモバイル、ビンディングとバインディングの違いみたいなもの(アルファベットのⅠの読み方で趣が変わるのはティーとチャイ、イランとアーリアンが代表格だろう)。
それはともかく平凡だが、ちょっとヘンな主婦にして二児の母は不思議世界にはまり込んでしまう。それはフリークの世界だ。これがなぜ強調されぬ! そのわけはいまだに障がい者がタブーだからだ。
隣人は多毛症という病におかされて全身毛だらけ。それを無知な人々はケダモノの業にとり憑かれた人間として好奇の目で見てしまう。
「エレファントマン」を思い出してしまうが、毛だらけで、ニコール・キッドマン扮するダイアンと並ぶとまるでディズニーの「美女と野獣」である。しかし、多毛人間に紹介される奇怪な人々が集結するシーンとなると往年のホラー映画「フリークス」さながらである。障がい者がフリークとされた時代である。そして容姿の奇怪な人々を受け入れない人々と魅了されてしまう人々がいることを、さりげなくこの映画は織り込んでいる。
彼女の両親、夫、長女・・・いってみれば世の中のマジョリティーだ。それにもめげず、彼女はどんどんマイノリティーの異世界に没していく。それだけのエロスなら物足りない。彼女は多毛男と同衾するまでに深みにはまってしまう。
あっさりこういってしまうとありきたりな不倫物語だが、彼女にとってはどうも不倫とは感じていないらしい。相手は夫に代わる男ではないのだ。夫にない男なのだ。もちろん多毛男のほうはそうではない。充分に野心的で嫉妬もする。夫の方にはまだ余裕がある。「飽きれるよ」という程度のダメージである。しかし多毛男には、自分を理解し受け入れてくれながらも永遠に自分のそばにはいてくれない女性ダイアンと、その夫に根深いねたみを抱いていたに違いない。ダイアンの出現によって彼の孤独は癒されるのだが。
「フランケンシュタイン」では、博士は自分の作った怪物が寂しがっているので女の怪物を作ったのだが、両者は結びつくはずがない。お互いに欲しいのは美なのだ。
多毛男も本当に欲しいのは同病の仲間ではなく、自分の醜怪さを受け入れてくれる「健全な」美女なのだ。
こうして思い入れのすれ違う男女二人は微妙に違和感を持ちながらも歩み寄り、女流カメラマンが誕生していくのである。

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2008年9月27日 (土)

映画 パヒューム

映画 パヒューム

上映:2007年
監督: トム・ティクヴァ
原作:パトリック ジュースキント (著), Patrick S¨uskind
   「香水―ある人殺しの物語 (文春文庫)」

   匂いに満ち満ちた映画 数奇な香水調合師の生涯

邦画だったら、母に汚物とともに廃棄されそうになった誕生悲譚、犬並み?の嗅覚という異能など、悲しくも珍奇な宿命を背負って生まれた男の生き様に涙を誘わせたことだろう。
ハリウッド映画なら、「沈黙の羊たち ハンニバル」のように主人公を怪物に仕立て上げ、例えば拉致した美女を煮詰めるなどという驚愕の残忍シーンで目を覆わせたことであろう。
・・・はて、この映画はフランス映画だったか?
すべてが中庸で、涙もなければ、残忍な仕掛けもなく、ひたすら甘美な香りが漂い、しかし、冒頭と終幕はグロと美の対極でバランスをとっている。なんといっても最終シーンの、あっと驚き、かつ華麗な展開に観客もまた刑場に見学に来た市民たちと一体になるだろう。ついに完成した究極の香水の威力が発揮されるのだ!

妻には社会的メッセージがなくてもの足りず、娘にはグロさがなくてもの足りず、しかし、夫にはその華麗なシーンの連続に・・・?、そして珍しい、匂いの充溢したシーンの全幕に満足するのである。
極めつくした香水調合師(パヒューム)の最後の野望として、窮極の香水を調合すべき人倫の道を踏み外すといった通り一遍の物語にはしたくなかったであろう製作者側の気持ちは分からないでもないが、主人公の異能をもっとお披露目してもらいたかったし、もっと刺激的な仕掛けも欲しかったし、涙も欲しかった。その上での終局の華麗さを映えさせてもらいたかった。
究極の香水もなんだか「いってみればフェロモンでしょ?」という技術大国の日本人はあっさりいってしまえるシロモノのようだが、これは映画のせいではないだろう。

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2008年9月 4日 (木)

零戦燃ゆ   映画

零戦燃ゆ

1984年8月11日

128分 カラー
製作:東宝映画
監督:舛田利雄 
原作:柳田邦男 
 
配役    
山本五十六:丹波哲郎 
下川万兵衛:加山雄三 
小福田租:あおい輝彦 
宮野善治郎:目黒祐樹 
浜田正一:堤大二郎 
水島国夫:橋爪淳 
吉川静子:早見優 

   奉仕の精神には泣けてしまう

80歳の母が最後まで見続けた。堤大二郎や橋爪淳、早見優が主演した青春映画ともいえる。戦争の主体は若い兵士たちなのだから。そして80歳の母と同世代なのだ。甦る青春である。けれど本当の主役はゼロ戦である。脚本や演出でなんとか客の入る映画に仕立てようとしても覆い隠せないほどゼロ戦が存在を主張している。
ゼロ戦は日本誇りとして、世界最高性能の軍機。これでアメリカに撃って出るのだ。
アメリカ機はこのゼロ戦に勝てない。なぜなら、製作思想の違いがあったからだ。人間の命を大切にするために、ぶ厚い鉄板を用いていてために動きが鈍くなっていたのだ。それに引き換え、ゼロ戦の鉄板は紙のように薄い。操縦士の命はいくらでもとって変えようというものだった。これでは性能が良い悪いの比較はできない。
しかもゼロ戦が大空の主役だった時期はすぐに終わり、人間を守りながらも高性能な戦闘機がアメリカで開発された。といっても馬力が強いだけの飛行機だが。
人の命をなんとも思わない非情の戦闘機だが、ゼロ戦には責任はない。あるのは人間と運命を共にしようという悲しさがあるだけだ。
悲しくも崇高だったのは、友人の命を救うべく、彼女の前からわが身を引き合う友情である。女を馬鹿にしているようにも見えるかもしれないが、俺が、おれがと彼女を得るために画策したり女々しくなったりがないのは、とても清々しい。女も馬鹿には描かれていない。その友情をよく見極め、女もまた我が身を捧げようとする。
「奉仕の精神」評判のよくない精神だが、他者のために我が身を無にすること、これにはやはり泣けてしまう。

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2008年6月25日 (水)

シービスケット

シービスケット SEABISCUIT

上映時間 141分

製作国 アメリカ

初公開年月 2004/01/24

監督: ゲイリー・ロス 

原作: ローラ・ヒレンブランド 

『シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説』(ソニーマガジンズ刊)

出演: トビー・マグワイア ジョニー・レッド・ポラード

ジェフ・ブリッジス チャールズ・ハワーズ

クリス・クーパー トム・スミス

    たいくつな日曜日の午後にぜひご覧あれ

パッケージで損をしている。いかにもまじめくさった退屈そうな感じがするではないか。ところが見てしまった。それは偶然でしかない。ところがドラマが始まるとスルスルとはまり込み、終わったときは脱力感が残るばかりだった。

といってもそんなに疲労したわけではない。山や谷というウエーブがあってけっこうのんびりもしている。トビー・マグワイアにはそんなオーラを持っている。彼の出演する映画はみな、どこかのどかだ。彼の出演する映画は安心してみていいと思う。

僕が生まれる20数年前のアメリカの話だ。金持ちになった男と、山で野宿していた変人と文学好きの天才ジョッキーがチームになって、アメリカの競馬界を席巻する。庶民の味方だというふれこみだ。どこがそうなのかは分からないが、馬によって救われるのは見ていて安心だ。ただ、そのわりには、馬を擬人化することもなく、まったくただの「馬」でしかない。日本なら馬の表情も描くのではないか。アメリカのベタつかない風土が軽くしている。日曜日の午後に見るのにうってつけである。

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2006年6月27日 (火)

ビッグ・フィッシュ

ビッグ・フィッシュ
BIG FISH
公開年月 2004/05/15
時間: 125 minutes
価格: ¥ 1,980
監督: ティム・バートン
出演: ユアン・マクレガー, アルバート・フィニー, ビリー・クラダップ, ジェシカ・ラング, ヘレナ・ボナム=カーター

     シットリ感漂う

釣り逃がした魚は大きい。ビッグフィッシュはビッグマウスと似たような「ほら吹き」という意味のようだ。ただ、奇想天外なドラマが展開されるのかな、と想像していたが、いい意味でそれは裏切られた。ドタバタでなく、いい意味でしっとりとしていた。ホラー畑のティム・バートン監督ならではの作品だろう。
少し太ったユアン・マクレガー。最初、よく似た別人かと思ったくらいだ。ちなみにまったく違う映画ながら「サイダーハウス・ルール」にどこか共通の空気が全編に漂っていた。なぜかは分析できないが、シットリ感が二つの映画をつないでいるのかもしれない。

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2006年5月28日 (日)

ボビー・フィッシャーを探して

ボビー・フィッシャーを探して

時間: 110 分
価格: ¥1,575
ワイドスクリーン
出演: ジョー・モントーニャ, ローレンス・フィッシュバーン, その他
監督: スティーブン・ザイリアン

    子どもが勝てるゲームを捨てるかな?

マルレーン・ゴリス監督の「愛のエチュード」はロシア亡命貴族にして文豪のウラジミール・ナボコフ原作の映画だが、薄倖のチェスの天才ルージンの生涯を描いたものだ。
あの「ロリコン」の語源になった「ロリータ」の迷走のような逃走劇はチェスに関係しているという説がある。ナボコフ自身が相当のチェスの強豪でもあった。
欧米の映画ではたまにチェスのシーンが出てくるが、日本の映画では将棋はそのような使われ方はしていないように思う。
そろそろ日本でも将棋映画が出てこないかな。

さて、本作はまず、主人公ジョシュがかわいいなあ。子どもって日本でも将棋の指し方早いけど、それでいて正確なんだよねぇ。
タイトルもだけど、アメリカにはボビー・フィッシャーしかいないの? 日本も羽生さんしかいないかなあ。最後の決戦で、相手を負かしたくないから引き分けにしようという主人公のセリフがとってもウソくさくて高揚が引いてしまったな。
教育パパやママには、うれしい教材になるね。

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ウディ・アレンの影と霧

ウディ・アレンの影と霧

¥3,990 (税込) 
発売日: 2001/01/17
時間: 86 分
ワイドスクリーン
出演: ミア・ファロー, ジョン・キューザック, その他
監督: ウディ・アレン

    煙に包まれたような映画

買うにも観るにもちょっと躊躇してしまうのが、黒澤明とウディ・アレンだ。なんだか重そうな感じがしたり、全然好みが違っているような気がするのだ。
黒澤は10本くらいは観てしまったのに、この偏見がつきまとう。ウディ・アレンはじつは本作品が記念すべき第1本である。2作目からは格別、勇気を出すことなく、つまり時間の無駄遣い、消耗感の心配なく観ることができるということが確認できた。

時代は古めかしい。まるでチャップリンの映画を髣髴とさせる。ひょっとして意識していたかも。
しがないサラリーマンであるクラインマン役のウディ・アレンはあまりにもおどおどした演技でぼくには落ち着かなかった。

クラインマンを取り巻く群像の描写に終始しているが、恐ろしい絞殺魔が不思議にちっとも存在感がない。まさに手品の不思議さを超えて最後は消滅してしまった。
むしろ存在感を主張し実際の主人公格はサーカス団員のピエロと剣呑師夫婦(結婚はしていないのだが)だろう。主人公役のクラインマンでもなく、絞殺魔でもなく、夫婦の愛情物語が主体になっているのである。それがこの映画の煙に包まれたような味わいといえる。実際、霧の中でドラマは始まり終わるのだ。

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2006年3月30日 (木)

秘密の花園

秘密の花園
THE SECRET GARDEN
 
アメリカ  1993/10
102分

監督: アグニエシュカ・ホランド Agnieszka Holland 
製作総指揮: フランシス・フォード・コッポラ Francis Ford Coppola 
原作: フランシス・ホジソン・バーネット Frances Hodgson Burnett 
出演: ケイト・メイバリー Kate Maberly 
ヘイドン・プラウス Heydon Prowse 
アンドリュー・ノット Andrew Knott 
マギー・スミス Maggie Smith 
ローラ・クロスリー 
ジョン・リンチ John Lynch 
イレーヌ・ジャコブ Irene Jacob 

現在のケイト・メイバリーが見たいときは・・・
http://www.kate-maberly.com/

  
      メアリー=ケイトがかわいいぞ

 1911年は、バリが「ピーター・パン」を発表した年であるとともに、バーネットが「秘密の花園」(福音館文庫にもある 他に「小公女」)を発表した年でもある。日本では明治、大逆事件が起きた年である。以来、日本でも古くから親しまれてきた少女小説である。わが家では妹や娘が親しんだ定番の名作である。しかし、兄であり、父であるぼくは垣間見るだけで全体を見ることがなかった。100分ほどでその正体が分かるのならと、このたび本作品を見ることになった。古典なのに斬新な演出によって衝撃が走った。ファミリー映画を越え出ていた。
 同監督の他の作品は見ていないが、主人公メアリー・レノックス7歳にケイト・メイバリーをキャスティングしたのも成功の大きな一因だった。愛想の悪いわがまま娘ながら、主人公として観客を画面に引きつけておかねばならない魅力、かわいらしさがなければならない。この矛盾した条件にピッタシだった。目が鋭くて生意気ながら、それを許してやりたくなるかわいらしさに溢れていた。脇役には定番に従ったようなキャラクターをそろえている。花の咲く様子を特撮で見せてくれたり、ガーデンニングの好きな人にも興味あるところがあるかもしれない。

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2006年3月12日 (日)

チャーリーとチョコレート工場

チャーリーとチョコレート工場
CHARLIE AND THE CHOCOLATE FACTORY

2005 115 分
アメリカ/イギリス
監督: ティム・バートン Tim Burton 
原作: ロアルド・ダール Roald Dahl  
   『チョコレート工場の秘密』
   (『Charlie and the Chocolate Factory』
音楽: ダニー・エルフマン Danny Elfman 
 
出演: ジョニー・デップ Johnny Depp ウィリー・ウォンカ
フレディ・ハイモア Freddie Highmore チャーリー・バケット
ディープ・ロイ Deep Roy ウンパ・ルンパ

     親は見せたくない毒のある子ども映画

欧米には童話としながらじつは毒々しい作品がある。親はとっても子どもには見せたくないと思うのだが、子どもはひそかに覗いてしまい、結局は広く読まれて名作の評価を得てしまう。グリム童話の残酷さはもう周知のことと思う。現代の絵本では、ローレン・チャイルドの「ぜったいがっこうにはいかないからね」(フレーベル館)というお母さんが目をむくような、子どもに人気の本がある。本作品も毒々しさがあるために、大人も楽しめ、結局、子どもも喜ぶものとなっている。

ウォンカ(ジョニー・デップ)のチョコレート工場への招待状がたった5枚、世界中で売り出されたチョコレートの中に混じっている。4枚は裕福な家の子どもたちが当然のように手に入れる。貧しい家の子どもチャーリー(フレディ・ハイモア)にとってチョコレートは1年に一度、誕生日のプレゼントでしか食べれないもの。でも、家族中でチケットのあたるのを見守っている。そして・・・。
裕福な子どもたちは傲慢で行儀が悪く、招待した工場でウォンカは手ひどいしっぺ返しをするところは評価の分かれるところだろう。ここらでディズニー映画風の無難な展開を予想してなめてかかっている観者を、うっちゃってしまうことになる。アレレ、ちょっとヤバイことになってきたゾ、と。
ちなみにウンバ・ルンバのキャラクターも、かわいいのかヤバイのかビミョーというところだ。

意想外な展開に慣れた現代人には予測できる展開で物足りなくなるかもしれないが、本作品の原作「チョコレート工場の秘密 ロアルド・ダールコレクション 2」(評論社)は1964年に出版されたものとして、そこは「スリーピー・ホロウ」からのヴィジュアルの美しさで勘弁してもらう他ないだろう。

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2006年3月 5日 (日)

ネバーランド

              不倫じゃないんだってばぁ

ネバーランド (2004)
FINDING NEVERLAND
 
100 分 イギリス/アメリカ
公開2005/01/15

監督: マーク・フォースター Marc Forster 
原作戯曲: アラン・ニー Allan Knee 
 
出演: ジョニー・デップ Johnny Depp ジェームズ・マシュー・バリ
ケイト・ウィンスレット Kate Winslet シルヴィア・ルウェリン・デイヴィズ
ジュリー・クリスティ Julie Christie デュ・モーリエ夫人
ラダ・ミッチェル Radha Mitchell メアリー・アンセル・バリ
ダスティン・ホフマン Dustin Hoffman チャールズ・フローマン
フレディ・ハイモア Freddie Highmore ピーター・ルウェリン・デイヴィズ
ニック・ラウド Nick Roud ジョージ・ルウェリン・デイヴィズ
ジョー・プロスペロ Joe Prospero ジャック・ルウェリン・デイヴィズ
ルーク・スピル Luke Spill マイケル・ルウェリン・デイヴィズ
イアン・ハート Ian Hart アーサー・コナン・ドイル卿
ケリー・マクドナルド Kelly MacDonald ピーター・パン

なんにも知らないで、期待することなんてひとつもなくて、緊急避難のように最寄の映画館に飛び込んで見た映画が おお! となるような心に突き刺さることがごくたまにある。友だちんちの部屋に転がっていたほこりを被ったビデオを何気に借りてきてちょっと退屈した休日の昼下がり、デッキに入れて現れた映像が生涯忘れられないメッセージを胸に刻んでくれたりする。
「ネバーランド」もそうだった。ジョニー・デップの素顔が見たかっただけだった。「シザーハンズ」「パイレーツ・オブ・カリビアン」の濃密メイクによる演技がとってもよかったから、その正体が知りたくなった。ただそれだけで手にしただけだったので、ソファで寝そべって、画像が現れる前に眠ってしまったくらいだった。眠りから覚めて改めて向き合っていると、アレレ? というような状態になる。タイトルが「ネバーランド」だというのに気づきもしなかった。それが「ピーターパン」の生みの親を描いていたなんて。
ちょっとエラのはった地味そうな俳優だったんだ。ジョニー・デップはそりゃあ、百態にも変化するだろう。でも、パイレーツの船長は女子高生たちにとってもモテそうなキャラだったのに、善人ブリっ子のジェームズ・バリは地味すぎだなあ。たちまち女子高生たちは見向きもしなくなる。
そのかわりちょっとくたびれた大人たちを惹きつけることになる。創作家たちは創造の女神とばかり向き合って家族を省みないもの。バリも女神やその妖精たちと遊んでいるうちに奥さんに見限られてしまったけれど、世間では、単なる不倫の罰としかみてくれないだろうね。エロいことではなくて、創造の境地で純粋に形をまとめあげようとしていただけなのにな。ここらへんが観客の涙を誘う原点なのかな。

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2006年3月 4日 (土)

Ray/レイ

    忘れてはならない 母の教え

Ray/レイ (2004)

152 分 アメリカ
公開年月 2005/01/29

監督: テイラー・ハックフォード Taylor Hackford 
音楽: レイ・チャールズ Ray Charles 
クレイグ・アームストロング Craig Armstrong 
 
出演: ジェイミー・フォックス Jamie Foxx レイ・チャールズ
ケリー・ワシントン Kerry Washington デラ・ビー・ロビンソン
クリフトン・パウエル Clifton Powell ジェフ・ブラウン
ハリー・レニックス Harry Lennix ジョー・アダムス
リチャード・シフ Richard Schiff ジェリー・ウェクスラー
アーンジャニュー・エリス Aunjanue Ellis メアリー・アン・フィッシャー
シャロン・ウォーレン Sharon Warren アレサ・ロビンソン
カーティス・アームストロング Curtis Armstrong アーメット・アーティガン
レジーナ・キング Regina King マージー・ヘンドリックス
テレンス・ダッション・ハワード Terrence Dashon Howard 
ラレンズ・テイト Larenz Tate 
ボキーム・ウッドバイン Bokeem Woodbine 

桑田佳祐・作「エリー・マイ・ラブ/いとしのエリー」を歌っていたミュージシャンとして近年、話題になった人、それが映画の主人公レイ・チャールズだ。超ビッグな人だと思っていたから、日本人の作品を演奏してくれるなんて驚いたものだった。それだけ桑田佳祐もビッグなんだろうし、日本という国もそれなりの国になったということなのだろうと、おじさん世代は思ってしまう。
70年代「世界のワンマンショー」というBBC制作の番組がNHKで放映されていた。そのときビッグな一人としてレイは登場したのがいまだに目に焼きついている。学校の音楽の時間にベートーベンの「月光」を練習させられていたが、先生の目を盗んでブルースなどを弾いていたという話だった。

映画はそのビッグになるまでの、のし上がっていく嵐の時代を描いている。音楽映画で退屈な映画はわたしには記憶がないが、152分集中できた映画もあまりない。歌もピアノもうまい、生まれつきのエンターテイナーであるが、そんな彼を育てた母が興味深い。レイが生涯通して心の中で対話した母の教えとは? わたしたちもまた母の教えを学びたいものである。

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2006年2月20日 (月)

冷たい月を抱く女

        医療という聖域をかき回した女

原題:MALICE
 
106 分  アメリカ   1994/07
監督: ハロルド・ベッカー Harold Becker 
 
出演: ニコール・キッドマン Nicole Kidman 
アレック・ボールドウィン Alec Baldwin 
ビル・プルマン Bill Pullman 
ベベ・ニューワース Bebe Neuwirth 
ピーター・ギャラガー Peter Gallagher 
ジョージ・C・スコット George C. Scott 
アン・バンクロフト Anne Bancroft 
グウィネス・パルトロー Gwyneth Paltrow 

邦題がどうして「冷たい月を抱く女」なのか? この映画への日本人の感想がこめられているのではないか、と思う。「子どもを大切にしろよ」と。
原題の「MALICE」の意味は「悪意」「恨み」そして法律用語的には「犯意」であり、こちらのほうがずっとストレートだ。詐欺がモチーフになっているからだ。
「月」とは子宮の比喩になりやすいが、この映画では卵巣のことだ。「冷たい月を抱く」とは「病んだ卵巣を持っている」ということだ。
病んでいる卵巣を巡ってなんらかの詐欺事件が展開される、それがこの映画のモチーフであることが想像できる。タイトルを読んだだけなのだからネタバレの内には入らないだろう。ここまではいってもいい許容範囲だと判断する。

小児科病棟でボランティアに精を出している妻トレイシー(ニコール・キッドマン)がある日、救急車で運ばれる。おりしも大学教員の夫アンディ(ビル・ブルマン)は学園内で連続発生したレイプ事件の容疑者として警察署にいた。あわてて病院に駆けつけた。救急でパブから呼び出された医師ジェット(アレック・ボールドウィン)が執刀に当たり、卵巣の一つが壊死を起こしているので緊急に摘出しなければならないことを伝える。同時に、その手術でもう一つの卵巣に宿していた妊娠6週間の胎児は流産もやむ得ないと告げる。夫は認めるしかなかった。この手術が問題となった・・・。
どんでん返しの連続で、よそみをしているヒマがない。冒頭の学園レイプ事件をみると例のごとくか・・・と決め込んでしまうが、じつはこんな事件なんて伏線でしかなかったのだ。
基本的には三人の男女によってストーリーは運ばれていくが、強烈な印象を与えたのは老婆(妻の母親)の登場シーンだった。
老婆はどうもアル中らしく、夫がウィスキーを土産に持って行くと謎解きのヒントを語り出した。ウィスキーをこの上なく愛し、鮮やかな手つきでトランプ手品を披露してみせる。なんとその手品がヒントだったのだ。このとうてい家庭の主婦には見えない老婆。かつては何者だったのだ?(そもそもこの老婆役はアン・バンクロフト。大女優じゃないか!)その娘は推して知るべしか・・・おっと、口が滑ってしまったかな。

(追補)

ダスティン・ホフマン初出演の「卒業」。彼はこの映画で成功を収めて大スターの道を歩み始めた。音楽を担当したサイモン&ガーファンクルもまたしかり。

彼らに歌われた「ミセス・ロビンソン」、彼女こそアン・バンクロフトだった。

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2006年2月19日 (日)

パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち

パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち

製作年度 2003年
製作国・地域 アメリカ
上映時間 143分
監督 ゴア・ヴァービンスキー 
製作総指揮 ポール・ディーソン 、チャド・オマン 、マイク・ステンソン 
原作 - 
脚本 テッド・エリオット 、テリー・ロッシオ 、ジェイ・ウォルパート 
音楽 クラウス・バデルト 、ハンス・ジマー 
出演もしくは声の出演 ジョニー・デップ 、オーランド・ブルーム 、キーラ・ナイトレイ 、ジェフリー・ラッシュ 、ジョナサン・プライス 

    親父も元気が出そう

この映画、明るそうなので元気出そうと思って見たのだが、なんとホラー映画だった! こんな明るいホラーってちっとも怖くないし不気味でもない。楽しいばっかりの画期的で、貴重なホラー映画!

おちゃめなジャック・スパロウ船長(ジョニー・デップ)が、いたずらで呪いの金貨を一枚いただいちゃったおかげで、知らずに呪われたゾンビになっていた。
唯一の悪役バルボッサ船長と格闘して剣で刺されても死なずにすんで、自分でもビックリ。
幼児期にジョニー・デップ主演の「シザー・ハンズ」を見た娘は、ずっと美容師か理容師になろうと心に決めて、この春、美容専門学校に進学することになった。
その娘が海賊姿のジョニー・デップを見て「かわいい」。ジョニーってものすごいキャラなんだな。

ミス・スワンが隠し持っていた呪いの金貨の効果も忘れがちだが、この金貨は「ロード・オブ・ザ・リング」のリング並に威力を発揮していることも見逃しちゃならない。

ただ、矛盾を感じるところもある。
この金貨、ミス・スワンが持っていても、彼女自身が呪われた形跡がない。唯一、海賊どもを港町に呼び寄せてしまった、というくらいなもの。

それが、スパロウ船長が手にしただけで、他の海賊と同様、不死身のゾンビになったこと、これはどう説明してくれるの?

ビデオなら2本組みになっていて「ハハーン こりゃ長編かぁ」と覚悟できるのだが、DVDだとなーんも知らずに見てしまって半日棒に振ってしまう。
でも、もう、2時間以上ないと物足りなくなっているこのごろである。忍耐の2時間では困るけれど、この映画、時間を忘れさせてくれた!

映画は見る者をトリップさせる。より深く、より遠くへとトリップさせてくれるものほどいい映画である。
この映画は、17世紀のカリブ海にまちがいなく連れ出してくれた!

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2006年2月12日 (日)

穴 The HOLE

穴  The HOLE

2001年イギリス作品
■ 監督:ニック・ハム
■ 主演:ソーラ・バーチ(「アメリカン・ビューティー」)
■ 原作:ガイ・バート、
■ 音楽:クリント・マンセル
■ 時間:102分

        お子様向けかなー・・・高校生たちが見るのがいいかも

イギリスの金持ちのお子様専用高校のお子ちゃまたちが親や学校の監視を逃れて悪さをちょっぴり楽しもうと、ビジュアル的にはちょっと不足かなという女の子に誘われるままに地下壕に入っていく。そのビジュアル面の不足している女の子ソーラ・バーチ扮するリズの賭けが事件の始まりだったのだ。どうしてもモテたい。地下で好きな男の子と一緒に過ごせたら落とせるかも・・・その一途さがとんでもない大事件に発展していくことになる。

狭い空間での濃密なドラマはどこかチェスとかのテーブルゲームに似ていてぼくは好きだ。この映画もそんな期待を抱かせて観る者をどんどん引き込んでいく。けれど、最後までどんでん返しが繰り返される割にはその緊張感は続かない。
なぜなら、被害者は一人残らずいなくなるからだ。怖がるものがいなくなれば誰が魔の手を畏れるものか。

それにしても前半は非常にできがいいと思った。予告編でボロボロになってようやく危機を脱出してきた少女のたまりに溜まった恐怖を思い切って悲鳴をあげて吐き出し、ようやく安心して電話の前に崩れ折れる。あのノリで進む間はドキドキワクワクしながら恐ろしさを待ち焦がれて気分は最高になる!

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2005年11月27日 (日)

●「ローマの休日」

1953年 アメリカ 118分
          『ROMAN HOLIDAY 』

        監  督:ウィリアム・ワイラー
        原  作:イアン・マクレラン・ハンター

           キャスト
          主人公アン王女:オードリー・ヘプバーン
     記者ジョー・ブラッドレー:グレゴリー・ペック
仲間のカメラマン アーヴィング:エディ・アルパート
          新聞社支局長:ハートリー・パワー
                将軍:テュリオ・カルミナティ
               美容師:パオロ・カルドーニ


(1)酔っ払いは王女様
第2次世界大戦後、ヨーロッパ諸国を歴訪している小王国のアン王女(オードリー・ヘプバーン)はローマに来てナーバスになった。毎日毎日交わす言葉は社交辞令だけ。人間的な、心の交流に飢えてしまったのだ。
眠れない夜、医者に睡眠薬を処方されながらもホテルを脱走してしまった。巧みに街に出たものの薬が効き、朦朧状態。賭け事ですっからかんの新聞記者ジョー(グレゴリー・ペック)に拾われる。
自分の部屋で介助するジョーは「おまえは何様だ」といいたくなるような酔っ払い女の態度に腹をたてたが、翌朝の新聞写真を見て驚く。目の前で眠っている女は本物の王女様だったのだ。ジョーはチャンスを逃すまいと仲間のアーヴィングと結託し、特ダネで金儲けをたくらむ。気付かないふりをしてローマの案内役をかってでた。
アンはノビノビとローマを楽しみ、美容師に教えてもらった夜のダンスパーティーにウキウキ気分で出かける。そのころ王国は消えた王女を探すために秘密警察を派遣していた。ダンパははたしてどんなメチャメチャ舞台になってしまうのだろうか?ジョーは特ダネで金儲けができるのだろうか?

(2)フーテンの寅さん
オードリーは女優であってお姫様ではない。けれど幼稚なことをいうが、この映画を見たとき本物のお姫様かと思った。それほどのハマリ役なのだ。かわいくって上品。上手に演じているというより、地そのものがそのように思えるのだ。
かしこまってばかりでクソおもしろくない王室外交の旅で、アン王女はストレスが限界まで溜まった。もっと人間的な会話がしたい。もっとノビノビと行動したい。ホテルを脱走して、くたびれてすさみかかった海外勤務の記者ジョーと出会い、思いが叶えられていく。
ジョーは金欲しさで親切ぶって利用しようとたくらむ。遊びたいアンの相手をするにはお金がない。それを何とか工面して特ダネにしようという努力に笑いと生活感がある。なんだか「フーテンの寅さん」みたいだ。
ジョーがそれほど悪人にならないのは、金がないばかりか、金離れがいいということ、アン自らが体当たりで行動しているということ、そしてどこまでもお人よしで、女の子たちに信頼されているカメラマンのアーヴィングが良き友としてフォロー役に回っているということ。この三点につきる。

(3)イタリアよいとこ一度はおいで
オードリーの母はオランダ貴族だという。オードリーの気品さはそこから来ているものだといえるが、極貧の出といっても評価は下がらないだろう。むしろもっと熱烈なファンが発生したかも分らない。ともかく品性と奔放さがバランスよく配合されたキャラクラーは奇跡としかいいようがない。
アン王女の国はヨーロッパの小さな王国という設定だ。オランダは大きな国の部類。たぶんモナコよりも小さい国という感じがする。大国の王女では警備が厳しくてホテルからの脱走など想像がつかない。小国の王女だからできた冒険物語だ。その物語は王女と同様、日常に倦み、恋愛を夢見る女たちには一度はしてみたい憧れのデート・ストーリーと映る。
ローマは、というよりイタリアはワクワクする恋情の国だ。街の庶民生活を背景に、遺跡めぐりやダンス・パーティーを通して恋に目覚め、恋の深みに陥ったアン王女のように、普通の女たちもいつかそんなことを実現してみたいと思う。しかも、あとくされのない結末さえもが約束されているような。日本の女性たちよ、貯金してイタリアに行って来い。


(4)
神様ありがとう
ローマは私たちのためにありました
二人で歩いて恵みをいただきました
このような出会いは
生涯の宝です
貧しい私たちの日常も
生涯たったの一日が輝けば
命を与えてくださったあなたに
感謝せずにはおれません

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●「審  判」

 1963年 ドイツ・フランス・イタリア
          『THE TRIAL 』
        監  督:オーソン・ウェルズ
        原  作:フランツ・カフカ

            キャスト
主人公ジョーゼフ・K   :アンソニー・パーキンス
ナイトクラブのホステスであるビュルストナー
               :ジャンヌ・モロー
弁護士アルバート・ハスラー&前後のナレーター
               :オーソン・ウェルズ
レニ 弁護士の看護婦にして情婦
               :ロミー・シュナイダー
廷吏の妻ヒルダ     :エルザ・マルティネリ
アーミー 16歳直前の少女 ジョーゼフ・K のいとこ
               :ネイドラ・ショア

(1)覚めない悪夢
早朝、男が部屋に入って目が覚めた。刑事風の男は「逮捕する」という。ヨーゼフ・K(アンソニー・パーキンス)にはまったく覚えがなく憤るばかりだった。
出社後、上司に招待されて劇場に出かけると、刑事たちに呼び出され、裁判所の査問委員会に出廷するようにいわれる。洗濯している女ヒルダに指示されたドアを開けると、そこは何百人もの役員がひしめいている大法廷だった。めまいがするような極端な落差だ。
誰一人信じられる者のいない群集に向かって、Kは根拠なき逮捕、ずさんな訴訟、無能な巨大組織を糾弾する。
叔父の紹介で弁護士(オーソン・ウェルズ)と会うが、威張っているものの病弱で実行力はなかった。むしろ弁護士の看護をしているレニ(ロミー・シュナイダー)こそ行動力があり、手がかりを与えてくれる。
Kは判事にコネのある画家を尋ねたり、裁判所管理人の妻ヒルダやその管理人に好意を持たれながらも、いい方向へは少しも進展しない。
彼らの生活空間とドア一枚でつながる裁判所の歪んだ内部を彷徨い、同じ身の上の被告たちの卑屈で惨めな隷従ぶりに憤りながらも、泥沼に沈みこむばかりだった。

(2)悪夢の論理
1966年、中学1年の夏休み。帰宅してテレビのスイッチを入れた。ドラマは始まったばかりだった。画面がやけに古臭い。わが家のテレビがカラーになる前だったので白黒は当然だが、雰囲気が暗かったのだと思う。
主人公はいくらドラマが進行しても、不思議な胸苦しい事態から抜け出られないで、そのまま映画は終わってしまった。映画が終わっても、なかなか覚めない悪夢ような鬱陶しい気分にしばらく浸った。
夏休み課題図書の一冊、カフカの「変身」を読み、間違いなくその映画はカフカの「審判」が原作だと確信した。実際に読んで確かめたのは大学に入ってからだが。
池袋にある映画館文芸座で受付のバイトをしていた知り合いの女の子にリクエストしてみた。応えは「もう上映できないんだって」だった。
1993年、書店で目を疑った。ビデオが出ているではないか!あきらめていた映画がまた見ることができる。
中学生のときのような、自分自身が迷路に放り込まれたようなハマり方はできなかったが、なつかしい胸苦しさを再び覚えた。冒頭で暗示的に語られる「悪夢の論理」はもう素直には受け入れられなかった。

(3)複雑な劇場構造
「オペラ座の怪人」は劇場の地下深く隠れ住み、毎晩、天井から響いてくる音楽に陶酔しては不幸な人生を忘れようとする。劇場の裏はそんなこともあり得るような、なじみのない者には迷路のように複雑で唐突に異界の出現する構造になっている。けれど、舞台がうまく場面転換できるのもそんな仕組みがあるおかげだ。
Kの迷い込んだ裁判所もなじみのない者には迷路のように見える。裁判所は「世の中」でもある。Kを逮捕したのは世間の常識なのだ。Kには頼りない、いいかげんな司法の世界だが、ひょっとするとKの方こそ壁にぶつかってばかりいる偏屈野郎ではないのか。もちろん、狂気の目から見抜いた司法の不正というものも多少はあろう。
裁判所の管理人の女房や弁護士の看護婦も唐突である。なぜか最初からKに好意的である。看護婦のレニは会ったその晩に書類の山の中で睦みあう。門の向こうにある魅力的な世間になじまず、食ってかかってばかりいる彼を癒しているようだ。しかしながら対社会的な問題となると解法を与える力にはなり得ない。
わたしたちは妄想にもがき苦しむ死に方をするわけにはいかない。悪夢の論理はどうやれば解けるのだろうか。

(4)とにかく夢はわかりにくいものだが・・・
1992年公開の「トライアル/審判」カイル・マクラクラン主演のリメイク版もあるが、天才オーソン・ウェルズにはかなわなかったと、わたしは見る。
92年版は暗示的な言葉や動作をセリフで説明するなど、分りやすくしようという努力が見られる。けれど、そのおかげで映画の魅力を減少させてしまった。とにかく悪夢によるアナザー・ワールドはわけわかんなくても別にかまわない。言葉だって意味不明なほどかえって意味深に聞こえるものだ。意味不明なほど俳優たちの演技がギラギラ輝いてくるというものである。
裁判所は「全体」であるかように夾雑物がたくさん混じり込み、分りにくさを助長しているが、枠のない夢ならそういうことだ。日常生活と縁のなさそうな法廷の隣で管理人の女が洗濯やミシン掛けしていたり、隙間だらけの板張りをアトリエにしている画家がいたりする。
わたしたちは夢なら早く覚めて欲しいと願う。事件はすぐに解決しそうで解決せず、じれったい気分で後味の悪い結末に連れて行かれる。こうしてこの映画はウィルスのように自分の胸に潜り込み長く潜伏する。そしてKである自分はいつか発病するのだ。


(5)SUPERSTITION
優しくしてあげる
私の身体すべてで
いいのよ
あなたはもうじき死ぬのだから
ううん むり
簡単には死なないなんていうけれど
男は簡単に死ぬものなの
抵抗しても無駄だと分れば
簡単に死ぬの
いさぎよい
なんて都合のいい言葉つかってさ
あなたの唇の形
死ぬ人のか・た・ち

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●「リトル・ダンサー」

2000年 イギリス
         『BILLY ELLIOT』

        監督:スティーヴン・ダルドリー

            キャスト
主人公ビリー・エリオット:ジェイミー・ベル
小さなバレエ教室のウィルキンソン先生:ジュリー・ウォルターズ
ビリーの父炭鉱夫:ゲアリー・ルイス

(1)ヘナチョコ息子とタフガイな父親
1984年、イギリスの炭鉱ストライキの闘いぶりは世界中に報道された事実である。炭鉱のあるダーラムは風光明媚で歴史のある地方。美しい海の輝きを背景に代々炭鉱夫を勤めてきたエリオット家も父親(ゲアリー・ルイス)と長男がプライドをかけたストライキを闘っていた。末っ子のビリー(ジェイミー・ベル)は11歳の小学生。ちょっとボケかかった祖母の世話を任され、また、エリオット家の一員として死んだ祖父のグローブを与えられ、ボクシング教室に通わされていた。
ある日、体育館にバレエ教室の一団が加わった。伴奏が始まるとビリーはまるで調子が狂いノックアウト。舞うことの魅力。ビリーは俄然バレエに惹かれていった。死んだ母の好きだったピアノと関係があるのだろうか。
許さないのは男の中の男である父親。バレエなどオカマのやるもの。男は常に戦士でなければならない。
しかし、バレエ教師のウィルキンソンに才能を見出され、なんとロイヤル・バレエ学校を受験することになった。息子の学費のために、あれほど軽蔑し、唾棄していたヘッポコ野郎でスト破りの一団に父親は加わった。勇気を持って折れたのだ。かくて二人はロンドンに旅立つ。

(2)天才バレエ少年の発見
主人公ビリーの最高の魅力はバレエの技である!
彼には他にどんな力があるというのだろう。スクリーンに向かって場内にいる観客の視線をひきつけるには、その他に設定された才覚では不足である。凡庸すぎるのだ。それだけではただの少年。ひょっとすると他のキャストに主人公の座を奪われて、彼は印象のパッとしない脇役に甘んじていたかもしれない。
そんな少年の唯一にして最大、最高の魅力、観る者を一瞬にして捕捉し二度と逃さない強烈な快楽を与えるもの、それが彼の身体から自然ににじみ出るようなバレエなのである。
天才の発見!観客は自らの発見に有頂天になって自己満足し、ひ弱な天才の成長を庇護者のごとく最後まで見守ってしまわざるをえない。
少年にとってはなにげない日常の所作が私たちには優美な足裁き。突如、落とし穴にはまり込んだように思わず平伏してしまう。
万歳!ビリーにというよりも、すきを突いて見る者を驚愕させたジェイミー・ベルに惜しみのない拍手のあらんことを。


(3)キャラ交響曲
ビリーの脇を固めたキャストたちのうちであなたは誰が好み?
右から左にまんべんなく並べられたキャラクター。最右翼はビリーの兄トニー。過激で純粋だ。次に大人の風格を持った右翼が父親。タフガイだ。ボクシング教室の先生。中心をビリーとする。左に若いころプロのダンサーになれるといわれたと繰り言をいう祖母。ビリーの才能を見出したちょっとすれたバレエ教師ウィルキンソン。ビリーの友人でオカマの将来性十分なマイケルが最左翼。チュチュを腰につけてのコスプレ。彼もまた純粋なのだ。アクセサリーに近所のちびっことビリーのバレエ友だち。ママがウィルキンソン先生。
さあ、あなたは誰がお気に入り?なかなかチョイスできないのがこの映画の特徴だろう。キャラクターが絶妙のコンビネーションで配置され、バランスの取れた交響曲を練り上げて、憎まれ役は一人もいないからだ。
あんなゴツゴツした男は退屈?
口紅ぬる男の子なんて気持ち悪い?
くたびれたバレエのおばさんはタバコ臭そうでいや?
ビリーはこの人たちのすべての要素を持っている!!


(4)ビリーとマイケル

マイケル
きみは薄暗いお母さんの部屋で
ひっそりと口紅を塗るのが好き
バレンタイン・デーに
チュチュをプレゼントした夜
ぼくたちは
朝になるまで踊った

ビリー
ありがとう
ぼくは君が好きだよ
今すぐにでも唇を奪ってやりたい
二人で手を取って踊った夜
死んでもいいと思った
できれば恋人になって欲しかった


マイケル
ぼくは ぼくは君が好きだけど
愛してるのはバレエ
踊っていると
死んだお母さんに会えそうなんだ
ビリー
ぼくがお化粧するのだって
お母さんに会うためだよ
ぼくの中にいるお母さんに

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●「ハンニバル」(HANNIBAL)

2001年 米

      監督:リドリー・スコット
      原作:トマス・ハリス
  
         キャスト
テロリスト・ウサマ=ビンラディンとともにFBIから10大凶悪犯として国際手配になっている人肉グルメのハンニバル・レクター博士
:アンソニー・ホプキンス

ハンニバルから自分の幼少体験を根掘り葉掘り掘りまくられているクラリス・スターリング捜査官
:ジュリアン・ムーア

脳みそ男ポール・クレンドラー調査官
:レイ・リオッタ

フィレンツェ市警察署のしがない中年刑事パッツィ
:ジャンカルロ・ジャンニーニ

素顔は美男の性格俳優にして顔の破壊された大富豪メイスン・ヴァージャー
:ゲイリー・オールドマン

他出演:ライアン・フィリップ、ネーヴ・キャンベル、サルマ・ハエック、マイク・マイヤーズ 他
  
発売/販売元:アスミック・エース

(1)フィレンツェからの愛の香り
クラリス・スターリング捜査官(ジュリアン・ムーア)は赤ん坊を抱いた悪人を射殺したことで窮地に立たされた。そこへハンニバル(アンソニー・ホプキンス)についての情報提供者ヴァージャーが現れた。大富豪であるが、ハンニバルの被害者で復讐をたくらんでいた。
ハンニバル・レクター博士。元精神科医にして人肉食嗜好の凶悪犯。10年前、連続誘拐殺人事件が起きたとき、まだ実習生だったクラリスに地下牢の囚人ながらも、犯人割り出しに的確なアドバイスを授けた経緯がある。事件解決直後、警官の腹を食い破り逃亡した。
ヴァージャーは二人の関係を察し、クラリスを利用しておびき出し、巨大ブタの餌食にと罠を張り巡らし始めた。
ハンニバルはおりしもイタリア・フィレンツェのカッポーニ家文庫の司書に潜り込もうとしているところだが、あろうことか、クラリスの近況を思いやってフィレンツェの香りのする手紙を送付してきた。
文庫の司書失踪事件を捜査していたパッツィ刑事がフェル博士と称する新任者が国際手配のハンニバルであることを嗅ぎつけた。出世とは縁遠い中年刑事は300万ドルの賞金をわがものにしようと動き出した。

(2)豪奢なフィレンツェに目がくらむ
(夫)あんまりかわいいと食べちゃいたくなるって気持ちぼくにもあるよ。
(妻)フン。最初に口にしたいのは最後の場面。これがなければよかったのにって思うけど、また、これだけの毒がなければもの足んなかったかなってところね。
(夫)「ゲーッ」って手で顔を覆いながらも指の間からけっこう観てしまうね。
(妻)巨大ブタが人間を食うシーンなんて、まあなんとかなったけど。それにしてもフィレンツェの街はいい。あなたと結婚する前にイタリア旅行してきたわけだけど、ガイドはいい男だった。あ~あ、また行きたいなー。おお、フィレンツェ、イキな男たちがわたしに微笑んでくれる街。カッポーニ家、街頭、歌劇場シーンなどヴィジュアルのすごさにまた目がくらんだ。ベルナルド・ベルトルッチ監督でなくてもイタリアって豪奢になるのよ。
(夫)そういえば、背景にやたら日本人やアジア人が多くない? 次回があればきっとアジアが舞台だよ。
(妻)それなら上海よ。名物のカニは肉食で、サディズムのシンボルだからね。ハンニバル・カーニバル・カニってことでもあるし・・・。

(3)ハンニバルの優しさは食欲から
(妻)ハンニバルってジジィになったね。いくらダンディーで知性が高く、たとえ変態でなくても興味はないな。
(夫)「主婦」が入ってるからじゃないかなー。あの圧倒的強さを見ると、ハンニバルはだんだんスーパーマンかゴルゴ13みたいになっていくんじゃないのかなあ。
(妻)「アダムス・ファミリー」みたいに悪魔趣味なのに善良って感じの、変な正義が強調されていくのかもね。
(夫)ヴァージャーも変態でワルで相手の心理を読むという点で共通点がある。でもぼくらはハンニバルのほうに、つい肩入れしてしまうんだよなぁ。
(妻)それはね、ハンニバルには女の人を愛し、抱擁しようとする心を持っているからよ。男はみんな結局は自己中心でしょ。欲しいものを手に入れるためには優しくもなるのよ。女性にはくすぐったいけどありがた迷惑。
(夫)でも、女からすれば、自分の心の底に眠っている記憶を掘り出してくれる男の人って、無視できない存在じゃない? ナンパの極意みたいなものだけど。ところでクラリス役には前回も今回も美人の女優を起用したけど、オーラの強さでは前作のジョーディー・フォスターのほうが勝っていたね。

(4)アンティアの香水

(女)
フィレンツェは愛の街
アンティア香水店から愛の香りを送ります
フィレンツェはダンテの街
ベアトリーチェを見初めた運河沿い
オペラ「新生」で出会えます
フィレンツェは歴史とドラマの街
繁栄と暗躍と
崇高と堕落と
あなたの日常にも
美しい悲劇がありますように


(男)
フィレンツェはショッピングの街
大金を抱えて
スリ、カッパライの雑踏を
ナイフ忍ばせて散歩する
窓のない部屋で想い描いた
子羊の並ぶパゾリーニの市場
暗黒にひとり目覚めた気持ちで佇む

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●「ギャラクシー☆クエスト」

1999年 米

   監督:ディーン・バリソット

   キャスト
ティム・アレン:タガート艦長
シガニー・ウィーパー:タウニー・マディソン少佐
アラン・リックマン:ドクター・ラザラス

 (1)B級映画をみごと演じたA級映画
アメリカのテレビ史を調べてみないと本当かどうかわかんないが、1979年から4年間放映されたのだそうだ。いまから20年前のことだ。「スター・トレック」みたいなものなんだけど。それからはぜんぜん売れてない出演者たち。でも、熱狂的なマニアたちの支持によってイベントが続いている。いまではそれが彼らの唯一のおまんまのタネだ。シガニー・ウィパー似の女優もいるがシガニーは「エイリアン」シリーズで大々的に売り出したから彼女ではない・・・?
男優は酒に溺れて惨めな境遇を忘れたいが、二日酔いの彼を訪ねてきたのは純朴そうなファンの一団(?)だった。宇宙戦争をやっているが助けて欲しいとのこと。こういうオタクに支えられていると思うとそれなりつきあってやらねばと連れられていったところは・・・彼らはマジ宇宙人だった!
ギスギスしていた出演者たちは、ベニヤ板でなく本物の宇宙船に乗り込み、本当の仲間意識を育みながらファトクリ星の凶暴な奴らと現実に戦い、善良な宇宙人サーミアンの信頼にみごと応えていくのだ。地球に戻った俳優たちを待っていたものはなんだろう。

(2)シガニー・ウィーバーってボインだったぁ?
(娘)なによこれ、おもしろくないから、もう寝る!
(僕)「PARTY7」だって最初はつまんなかったじゃないか。そのうちおもしろくなるよ。
(妻)あれ? あの女の人、シガニー・ウィーバーじゃないのぉ。
(僕)そんなことないよ。「エイリアン」が流行ったのいったい何年前だよ。あんなに若いわけないじゃない。第一、あんなにボインじゃないよ。
(妻)そんなもの整形でいくらでも変えられるのよ。
(娘)というよりボディ・メークでね。
(僕)そぉかあ。ぼくもあんなボインが欲しいなぁ。「エイリアン」のときはフェミニスト代表って感じだったのに、こんどはどーしてあんなにチャーミングなの。
(娘)トカゲ頭のドクター・ラザラスっていま上映中の「ハリー・ポッター」にも嫌味な先生スネイプの役で出ているんだって。
(僕)アラン・リックマンといって「ダイ・ハード」の敵役にもなった人。カッコよかったよ。お正月に「ハリー・ポッター」見に行かない?
(娘)受験ですぅ! 

(3)人生はハッピー・エンド
(妻)艦長って調子いいもんだからみんなは敬遠してるけど、仕事となると意地も投げ出すっていうのはなんだか、人生のワビ、感じる。「エイリアン」で舞台になった宇宙船も軍艦みたいなサッソウとしたものでなく貨物運搬の船で、あのシガニーも従業員って感じの味があったっけ。
(僕)ビジネスのはずが、善良な宇宙人サーミアンたちにほだされて、というか彼らに導かれるように本物の宇宙船を操縦し、凶暴なファトクリ星人をやっつけたのには感動したな。くたびれていた俳優たちはこれで光彩を再び手にすることができたんだ。人間は日々の労働よりも冒険によって輝くということだろうか。
(娘)そこんとこのプロセスが込み入ってて、ちゃんと見てないとつまんなくなるし、ちゃんと見てればおもしろいんだよね。
(妻)現実の大スターがわびしいTVタレントを演じること、TVタレントが本物の宇宙戦士をやることなどの差が、たぶん、この映画の妙なのね。
(僕)最後はやっぱりラブ・ロマンスがあって、ハッピー・エンドなんだよなぁ。ぼくらも元気だそうよ。

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●「初恋のきた道」

2000年 米中合作
         (The Road Home)

        監督:チャン・イーモウ

            キャスト
       チャン・ツィイー:村の少女チャオ・ディ
         チェン・ハオ:若き教師ルオ・チャンユー
      ルオ・ユーシェン:帰郷した青年スン・ホンレイ
      チャオ・ユエリン:老いた母

 (1)教師は村の宝物だった
都会からスンが帰郷した。長年、教育者として村に貢献した父が亡くなったからだ。老母は悲しみのため学校の前に座って動かないという。
老母は、町の病院で亡くなった父の柩を村まで運ぶのに古式にのっとり人の手で担いできたいという。強情にいい張るのは、年寄りしかいない村の実情を思うとわがままとしか思えなかった。スンはいまさらに強く結ばれている両親の出会い話を思い起こすのだ。
教師が来てくれて喜ぶ村人たち。とりわけ少女ディは青年教師の笑顔がまぶしい。村人総出で校舎を建設している間、食べてもらえる当てもないのに気持ちをこめた弁当を現場に届ける。始まった授業。高らかに朗読の声が響く。文化に飢えた村人たちは学び舎に吸い寄せられる。なかでもディは教師の朗々とした声に胸をときめかす。彼女の熱い思いはついに届き、結ばれる・・・。
寒村に文化をもたらした教師を敬愛したのはディだけではなかった、と知るのはそれから40年経た現在。自分とともに老朽化した学び舎を再建しようと奔走して果てた教師のために、教え子たちが全国から続々と駆けつけたのだ。ディの願いは老いて再びかなうのだ。

(2)魔性の女ツィイー
チャン・イーモウ監督の映画には美女がつきものだ。とりわけ「菊豆」の主演に抜擢されたコン・リーは、中国の山口百恵と称され、染物の美しさと重ね合わせて妖艶な魅力を持っていた。それならディ役に見出されたチャン・ツィイーはさしづめ葉月里緒奈だとぼくは思うのだ。里緒奈に美しいが素朴な村の少女を演じられるだろうか?それはとても不自然だというしかない。たくさんの技法や美しい自然描写の連続があざとくて、イーモウ監督には「業師」の称号を冠してもいいのだが、ツィイーの抜擢は惜しむらくはミス・キャストだと思える。中国映画にはたびたびこのような不自然なキャスティングがある。シェ・チン監督「芙蓉鎮」主演女優リュウ・シャオチンは貧しい定食屋の娘なのだが、高貴な顔立ちである。男優でもウー・ティエンミン監督「變臉」の大道芸人役朱旭がインテリすぎる表情をする。天才監督は美人にメッチャ弱いのか、それとも、庶民でも高貴であり、高い知性を持っているという思想によるのか。
「グリーン・ディスティニー」のイェン役は気の強そうなツィイーのはまり役だった。あんな美人で気の強い女の子ならぜひいじめてもらいたいって気にさせられる。

(3)ルオ先生の物語
村の娘ディの恋に引っ掛けて物語は進むが、背景には教師の生涯が一貫して描かれている。
青年教師ルオはなぜ辺ぴな村にやってきたのだろう? 師範学校在学中、経済を重視し伝統を守る右派と革命を徹底する左派の抗争に嫌気がさして、逃避してきたのだろう。けれど、町に呼び戻され左派による尋問と拘禁。復帰後は待ち続けたディと結婚。左派の攻勢はなおやまず「文化大革命」として未曾有の内乱に発展した。
ルオは保守的な人物として「造反有理」のもと少年たちの紅衛兵に迫害された。にもかかわらず人徳により村人たちとの信頼関係はますます親密なものとなった。
思い出して欲しい。最初に建てた教室の正面には文革のカリスマ、毛沢東の肖像が掲げられていたのだ。ところが、老朽化した教室の同じ場所には国旗が取って代えられている。「右派」の勝利を象徴するものだ。
柩を担ぐ教え子の中には紅衛兵として迫害した者もいたはずだが、それは克服され敬愛に変わったのだ。
恋愛を描きながらも過去の歴史をキチンと総括しているこの映画は中国映画の正統であり、歴史のない「グリーン・ディスティニー」はやはりハリウッド映画なのだ。

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●「フォーエバー・フィーバー」

        (Forever Fever)

        1998年 シンガポール 95分

        監督・脚本:グレン・ゴーイ

            キャスト
        ホック:エイドリアン・パン
         メイ:メダリン・タン
     リチャード:ピエール・プン
      ジュリー:アナベル・フランシス

(1)ダンスの神様現る
スーパーの店員ホック(エイドリアン・パン)はカンフーの天才ブルース・リーの映画にハマっていた。「力よ、自分にのり移れ!」とばかりに。
友人たちと映画に行くと、カンフー映画は終わっており、ディスコ・ダンス映画になっていた。硬派な気分の彼は
「ダンス?そんな軟派な映画見れるかよ」
でもみんなに背中を押されてシブシブ見てみる、と!な、なんとその輝きのスゴイことといったら、ダンスの天才ジョン・トラボルタの光彩に目が潰れそう。そしてご都合よくダンス・コンテストが迫っていた。賞金5,000ドル!
金持ち坊ちゃんに自転車を壊され、店員をクビになり、親からはわけの分からん文句をいわれ・・・、買うならバイクだ。バイクに乗って風切って走るのも輝きだ。
ところが気はせいてもダンスなんてしたことがない。しっかり者のメイちゃん(メダリン・タン)を誘ってダンス教室へ。「ああ、でもぜんぜんできないよぉ」
必死の思いで映画に喰らいつくと、ジョン・トラボルタ似のダンスの神様がスクリーンを抜け出して語りかけてきた。これでホックにも運が向いてきた・・・かな?

(2)ホックの心
いくつになってもオレたちは輝きたいと願っている。「そんなことないよ」といってみても、心のどこかにそんな思いをしまい込んでいるはず。でも、現実の自分ときたら冴えない男。どうしたら輝けるんだよ。
弟のヤツはガリ勉して医者になろうとしている。オレはそうはいかないしがない店員。それもクビになった。身体の底から溢れてくる力だけがオレを動かす。
ブルース・リーの映画何本見た?何回見た?「燃えよドラゴン」は10回。「怒りの鉄拳」は5回。「ドラゴンへの道」「死亡遊戯」は4回ずつ。耐えに耐え抜いて打ち放つ一発の鉄拳は閉塞したオレの重たい日常をこっぱみじんに打ち砕いてくれるんだ。
ジョン・トラボルタ「サタデー・ナイト・フィーバー」は10回は見たよ。オレとさして変わらない男が華麗なダンスで大勢の観客を魅了している。オレだってそんなのになりたいんだよ。オレは努力したか?かつてなく、したゾ。金持ち坊ちゃんの嫌がらせに耐えに耐え、ダンス・コンテストには何が何でも勝ち抜きたい。賞金なんかより(いや、それも欲しいけど)その向こうにあるもっと広々とした世界を見たいんだよ。

(3)成功へ導いた神様たち
ブルース・リー出演の香港映画は東映のパクリだと当時はいわれていた。いまじゃあ独自の足場を固めたけれど。この映画、パクリの香港映画のパクリのシンガポール映画になるのかな。むしろ「青春デンデケデン」みたいにエレキ・ギターにハマり込んで高校卒業間際にコンサートをしてしまったのと同じ感じかもしれない。熱狂し、憧れた映画のヒーローをふつうの青年が体現したさわやかな映画になっている。
ホックがSMAPの吾郎ちゃんに似てるって?ナンちゃんこと南原にぼくは見えるけど。ホックはマジメなつもりなんだろうけれど、親からすれば遊んでばかりいる。でも、仲間思いで頼りになるやつ。バカみたいだけれどみんなでカバーしてあげたくなる。こんな調子のいいヤツのダンスが世間で認められてしまう。「世界大会3位」は調子よすぎて現実的じゃない気がするけれど。
頭上から引っ張った神様がブルース・リーとジョン・トラボルタなら、下から支えてあげた福の神は、観音さまといいましょうか、ガール・フレンドのホイと、そして意外なことにウザったくも彼をみそめていたミセス・チャンだと思うよ。成功の裏にはこういう存在もいるんだよ。

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『ホワット・ライズ・ビニーズ』

2000年 アメリカ
(What Lies Beneath) 130分

監督:ロバート・ゼメキス
脚本:クラーク・グレッグ

 キャスト
ノーマン・スペンサー:ハリソン・フォード
クレア・スペンサー:ミシェル・ファイファー
ジョディ:ダイアナ・スカーウィッド
ウォレン・フューアー:ジェームズ・レマー
メアリー・フューアー:ミランダ・オットー


(1)主婦はドキドキがお好き
ノーマン(ハリソン・フォード)は、遺伝子工学で業績を持つ研究者。妻のクレア(ミシェル・ファイファー)はとびきりの美女で、名門ジュリアード音楽院卒業の元チェロ奏者。前夫との娘を抱えながらもノーマンと出会い結ばれ、今は湖畔の家で落ち着いた暮らしをしていた。
大学に進学し家を出る娘。優しいが研究に没頭する夫。クレアはヒマをもてあまして隣家の夫婦に好奇心を抱くようになった。フューアー夫婦はどうも仲が悪く、その妻は悩んでいるように見える。そしてこつぜんと姿を消した。同時にクレアの周辺では奇怪な現象がひんぱんに起きるようになった。中でも、湖面やバスタブの水面にクレアの面立ちにそっくりな女性が浮かび上がるのが不気味だった!
取り乱すクレアをいたわり、時には激怒し、なかなかまともに相手をしてくれない夫。やむえず、妻は友人とウィジャ盤を用いて死霊にわけを尋ねようと試みたがうまくいかなかった。なぜなら、フューアーの妻は生きていたのだ!しかし、死霊に導かれるようにクレアはなおも真相を追い求め、闇底に葬り去られようとした謎についに迫った。すると夫には隠された秘密が!


(2)映画によ~く似た体験
進学のため娘は家を出て、夫は仕事に追われて相手をしてくれず、取り残されたように時間をもて余す妻は安穏とするよりもむしろ追い詰められるという心理状態はよくあるのかもしれない。隣家の奥さんも同様の心理状態だったのだろう。それがシンクロナイズしたようにそろって庭に出て泣いたというところからいっきに画面に引き込まれた。ぼくの新婚時代を思い出したからだ。
新婚の私たちは新しい土地の、出来たての真っ白な団地に住んていた。寝室から海が見えるところだったけれど、近くの米軍基地からファントムの編隊が爆音を立てて頭上を飛ぶようなところでもあった。ある時、わが妻はテレビが欲しいという。日中、一人になると団地は人気がなく寂しさを通り越して不気味だというのだ。子どもがまだなく、そんなもんかなあとシブシブ買った。FENが聴こえたし、音楽やラジオ中心でやっていきたかったのだけれど。ところが金縛りにあって恐ろしい目にあってしまった。それが妻でなくて、ぼくのほうだった。
死霊に訳を聴こうとこっくりさんみたいなウィジャ盤を買ったけれど、妻に笑われておしまい。なんだか映画に似てない?でもホントの話だよ。


(3)一番怖いものってなぁんだ
この映画の本当の怖さってなんだろうか?怪奇現象が怖い?腐乱死体が怖い?(これがみものらしい)それよりなにより、信頼を裏切る人間のウソが一番怖い。lieは「横たわる」の他に「うそをつく」という意味があるみたいだけれど、タイトルにはそんなニュアンスもあるんだろうね。
夫婦って最後の砦のようなもの。その相手を疑るような偽りの生活をすることなんてちょっとできにくいはず。全幅の信頼をおく相手を疑い、足元をすくわれそうになることがミステリーの始まりなのかな。
隣人へ異常なほどの関心を示し、そしてポルターガイスト現象、幽霊騒ぎ、痴話喧嘩で家を飛び出す有閑マダムの困った行動。最後は自分の夫まで怪しんでしまうなんてこの奥さんってもう後戻りできないんじゃない?
どこまでが妄想で真実なのか・・・、でも妻クレアに自動車事故で失われていた決定的な記憶が蘇ると、かっこいい正義の味方のはずのハリソン・フォードが今回はエッ?エッ?エッ?っていううちに変わっちゃう。笑顔はあい変わらずかわいいんだけどね。


(4)愛よ、届け
ごめんなさい
わたしがまいた種だというのに
あなたにはご迷惑ばかり
でも
このままではいや
なんとか振り向いて欲しい
このままではいや
再び会いに来てもらいたくて
わたしはわがままなオンナね
水底に眠るわたしから
届けます
わたしの無残な姿のメッセージ

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●『ヴァージン・スーサイズ』

 1999年 アメリカ (The Virgin Suicides)  98分

監督・脚本:ソフィア・コッポラ
原作:ジェフリー・ユージェニデス
(「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」早川書房刊1900円)
音楽(オリジナル・スコア):AIR

        〔キャスト〕
      リズボン氏:ジェームズ・ウッズ
     リズボン夫人:キャスリーン・ターナー
テレーズ(長女17歳):レスリー・ヘイマン
メアリー(次女16歳):A・J・クック
ボニー(三女15歳):チェルシュ・スウェイン
  ラックス(四女14歳):キルステン・ダンスト
セリシア(五女13歳):ハンナ・ハル
トリップ・フォンテイン:ジョシュ・ハートネット

(1)いったいなぜ!
25年前に起きた五人姉妹の自殺。十代の衝撃的な事件を当時、近所の少年だった作者が語り手となって回想する。
四女ラックス(キルステン)のボーイフレンドトリップ(ジョシュ)や近所のおばさんたちを訪ね、自分自身の記憶を掘り起こしながら事件の背景を追い求める。原題を意訳すれば「少女たちの自殺」。
13歳の末っ子セリシア(ハンナ)はバスタブで両手首を切り、未遂。さらに快気祝いのパーティーの最中、鉄柵の尖端めがけて飛び降り、死んでしまう。天使のように愛くるしいセシリアがなぜ死なねばならないのか。
母親の管理がいっそう厳しくなる中で、ラックスがダンスパーティーで朝帰りをしたため、姉妹全員が自宅に監禁される。父親はパニックの連続でボケ、教職を解雇。
少年たちに助けを求めるラックスら姉妹たち。それぞれ自分の思いをヒット曲にゆだね、レコードを回して電話で流し合う。
少年たちが救助に踏み込んだ晩、リズボン家で待ち受けていたものは思い思いのやり方で死んだ彼女たちだった。いったい、なぜ、少年たちに見せつけるような死に方をしなければならなかったのか!

(2)リズボン家にいた天使たち
自宅に監禁されたあげくが集団自殺、というとおぞましい映画のように思われるが、断じてそんなふうに思われないよう、全力をつくしてオトーサンは守るぞ!
少女たちを死に衝き動かしたのはなにか。むしろそこを描くことに苦心するものなのに、この映画ではなぜか省いてしまった。あえていえば少女のロマンチシズムだろうか。大人や異性に気づかれないよう密かに隠し抱いているもの。それゆえに少女は神秘的で、少年たちの憧れもそこにある。ロマンとは人の見る夢である。だから儚いのである。
末っ子のセシリアが未遂後、ロールシャッハ・テストを受けた。バナナとかアフロヘアとか子どもらしい純な反応ばかりでこころに歪みなど微塵もない。彼女はただ神のみもとに帰ろうとしただけなのだ。
セシリアが遊んだ楡の木が切られようとしたとき、姉たちは腕を組み合って取り囲んだのだが、白いネグリジェ姿はイタリアのボッテェチェリ描く天使たちのように優雅だ。堕天使的なラックスをのぞいて姉妹たちの存在感が薄いのは「人間」でないからである。“エンジェル・シンドローム”永遠に汚れから遠ざかったのだ。

(3)かつて聖家族が少年の町にいた
五人姉妹なんて多すぎると思うかもしれない。でも、敬虔なクリスチャンであれば避妊などしないのだ。神に授けられたものはすべて受け入れる。
ラックスの救助要請に応じて少年たちがリズボン家に踏み込み、新たな展開が始まるのかと思っていたら、たちまち四人の姉妹も死んでしまう。人間のドラマに飛び込んで、汚れながらも大人になってゆく、そんな生き方を恐れ、拒否したとしか思えない。少年たちはヒーローとしてではなく、天使たちがリズボン家にいたことの証言者として、自殺(昇天)の現場に誘い込まれたのだ。
少年の一人が25年たって事件をまとめようとしたのはなぜなのか。特異な事件を目撃すれば人々に語りたいという衝撃にかられるものなのだ。ましてや中年は自分の来し方を振り返ろうとする年代である。
姉妹たちが地上から消えたのを境として、ミシガン湖沿岸の自動車産業は衰退し、町の活気も沈んだ。滅びゆくふるさとの記憶を留めておこうというのもロマンチシズムである。ところで、なんかつじつまの合わないシーンがあっても固執してはいけない。監督は巨匠コッポラ監督の愛娘なのだから、きっとなんかあるんだ・・・。

(5)堕天使
ララ
あなたにどんな逸脱があっても
わたしたちは責めなかったはず
世間と闘ったのが
ただひとり
あなただったから
天に見えるように
屋根の上で
男たちと交渉したのも
あなたが男の上になったのも
天と地のはざまで
神と人間の間に立って
闘ったから
堕天使
あなたは崇高な存在
感謝します

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●「ペパーミント・キャンデー」

2000年 韓国
        (バッカ サタン:ハッカ飴)

      監督:イ・チャドン
        キャスト
     キム・ヨンホ:ソル・ギョング
     ユン・スニム:ムン・ソリ
    ヤン・ホンジャ:キム・ヨジン

 (1)ペパーミント・キャンデーはどんな味?
20年ぶりに開催したピクニック。川原で興にのって踊りだすと、男が紛れ込んできた。消息不明だったキム・ヨンホ(ソル・ギョング)だ。再会を喜ぶのもつかの間、やることムチャばかり。みんなはシラケてしまった。と見上げると鉄橋によじ登っていた。トンネルから出てきた汽車がたちまち彼に迫ってきた!彼は叫んだ。
「戻りたい! 返りたい!」
その瞬間、時間は段落ごとにさかのぼり始めた。
キム・ヨンホが経営する会社はもはやなく、妻にも愛想をつかされていた。誰か道連れにしてやろうと拳銃を入手し、ひとりを撃った。あとは死ぬだけだった。
男が訪ねてきた。妻に会って欲しいと。初恋の女ユン・スニム(ムン・ソリ)。臨終を迎えていた彼女に彼はペパーミント・キャンデーを差し出した。彼女は夫を通してカメラを渡した。これらは二人の青春であり、愛であり、夢であった。
スニムと出会った次の年、徴兵されていたヨンホは緊急動員された。民衆が民主化を要求して立ち上がった光州に向けて。ここで少女を射殺してしまった彼は美しい青春を二度と手にすることがなかったのだった・・・。

 (2)キム・ヨンホへの第一の手紙
初恋の人ユン・スニムです。あなたがどんな境遇にいるか知りませんでした。夫は知っていて、隠したのです。死ぬ前にどうしても会いたかった。夫も一生懸命あなたを探してくれました。
カメラは夫が私の実家から探してくれました。ただ、あなたに渡していいものかどうか。前に突き返されましたから。今日はキャンデーを買ってきていただいたので、今度こそ受け取ってもらえると思っています。
20年前のピクニックのときに恋をしました。私はキャンデーが好きだといいました。毎日、工場で千個、手で包んでいたので、ほんとなら見たくもないところです。あのときは張りきっていたんですね。そしてあなたはカメラが欲しいと。野に咲く美しい花を写し撮りたいと。あの時咲いていたのは孔雀草だったかしら。
あなたが徴兵されると手紙を出すたびに1個ずつ封筒に入れて駐屯地に送りました。恥をかかせたでしょうか?刑事になったあなたにカメラを買ったのも差し出がましいことだったと反省しています。どうか許してください。今度は最後のお願いです。どうか、カメラでこの世の美しい人生をたくさん撮っていただきたいのです。

 (3)キム・ヨンホへの第二の手紙
妻のヤン・ホンジャです。純情なところはかなぐり捨てたい。あんたは軍隊時代にそう思った。優しい心にはつばを吐きかけたい。刑事時代にはそう思った。現実だけを見つめていたい。そう思って会社経営に乗り出した。でも、日本のバブルがこけ、韓国の経済もはじけて大統領が責任を取って辞めた。あんたの現実もそれで終わってしまった。終わってみれば初恋の人と再会するなんて調子いいよ。私は食堂の使用人。純情を捨てるのに手っ取り早かったわけよね。他の人にお尻なでられるの嫌だったけど、あんたになでられたときはすごく複雑だった。待っていたような、でもこんな形いや、でもでも彼女には勝ったのかな、なんて。
私が純情捨てたのはずっとあと。会社経営真っ盛りのとき。相手は教習所の先生。あんたには自転車の乗り方教わったわね。教えてくれる人ってなんだか頼りがいがあって甘えたくなるみたい。
あんたが彼女を諦めるために私と結婚したことなんて、ずっと感じてました。けれど私は信仰心の厚い女です。神様のお力でいつかあんたが本気で愛してくれるようになると信じてついてきたんです。さよなら、私の愛。

 (4)純情
あなたを責めるより
わたしの愚かさ
後悔します

神を信じることと
あなたの愛を信じること
どこかでいっしょにしちゃった

あなたの頑なさ
あなたの弱さ
そこに女は惹かれるものなのに
最後まで
崩しほぐせなかったことが
寂しい
ふたりはきっと寂しさに負けた

あなたの純情
わたしの純情
二人は自分の純情を走っただけ
分け合えなかった人生が
虚しい

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●「ハムナプトラ」

1999年 アメリカ 125分
       失われた砂漠の都(原題The Mummy)

監督/原作/脚本:スティーブン・ソマーズ
   キャスト
リック・オコーネル:ブレンダン・フレイザー
エヴリン:レイチェル・ワイズ
ジョナサン:ジョン・ハンナ
ベニ:ケヴィン・J・オコナー
イムホテップ:アーノルド・ヴォスルー
アナクスナムン:パトリシア・ヴェラスケス
アーデス・ベイ:オーディド・フェール

ハムナプトラ 1999年 アメリカ 125分
 失われた砂漠の都(原題The Mummy)

監督/原作/脚本:スティーブン・ソマーズ
   キャスト
リック・オコーネル:ブレンダン・フレイザー
エヴリン:レイチェル・ワイズ
ジョナサン:ジョン・ハンナ
ベニ:ケヴィン・J・オコナー
イムホテップ:アーノルド・ヴォスルー
アナクスナムン:パトリシア・ヴェラスケス
アーデス・ベイ:オーディド・フェール

(1)さあさ、活劇「恐怖のミイラ」が始まるよ
エジプトの植民地支配をたくらむイギリスの軍隊と民族独立闘争を戦う勢力が衝突していた。敗走したのはイギリス軍だ。将校リック(ブレンダン・フレイザー)は命からがら逃げのびたものの、その後、カイロの刑務所で絞首刑を待つ身となった。
一攫千金を狙うジョナサンが、妹で考古学徒のエヴリン(レイチェル・ワイズ)に持ち込んだのは、この囚人から掠め取った古代の鍵。宝の地図とおぼしき羊皮紙が内蔵されていた。幻の都ハムナプトラの所在を示すものだ。
ハムナプトラは王家の墓所。3000年前、悲劇的な愛の物語があった。王セティ1世に寵愛されていた妾アナクスナムンと大司祭イムホテップが密かに愛を交わしていたが、それを察知して厳しくただす王を二人は暗殺した。衛兵たちに発見されると彼女は自害。イムホテップはひとり生きのび、アナクスナムンの蘇生の儀式を始めた。しかし儀式半ば逮捕された彼は、生きたままミイラにされ無数の肉食虫に食われるという残虐な「ホムダイ」の刑に処せられた。ジョナサン他、金銀財宝に目がくらんだ大バカ者たちが宝の代わりにあろうことか、この愛の亡者イムホテップを蘇らせてしまった!

(2)デートで見たい映画?
始まったとたん目が離せなくなるよ。S・スピルバーグだけかと思ってた、こんなめまぐるしい映画作るのって。ちょっと怖くてかなりおマヌケな物語、デートにはピッタシな映画だと思ったけど、映画の作りもおマヌケ。
「死者の書」と「アメン・ラーの書」は同じような部屋の石像の下にあったのだが、前者は内臓の入った壷数個だけの暗い部屋で、後者は黄金に輝く部屋。同じ部屋がいつ模様替えしたの?ってつい思ったけど、たぶん、二部屋あったのね。
イムホテップのミイラは3000年たっても、まだジューシーだった。肉食虫ことフンコロガシのスカラベがセコセコ生きのびるためだったのかしら。それなのに現代人が襲われるとたちまち干からびてしまうってなに?
蘇ったイムホテップがカイロに現れて民衆を操り、学者の書斎にいるオコーネルたちに向かって口から黒い悪霊的な粒子を吐きつける。恐怖のイナゴになるのだけれど「グリーンマイル」でも大男の囚人ジョン・コーフィが病人から吸い取った黒い病的要素を吐き出すシーンとまったく同じ。いったいどっちがパクったの?
細かいことは気にしないデートのための映画かな。

(3)デートで見たい映画!
デートのための映画ってさ、スリルがあること、明るいこと、熱愛物語、恋の成就、ちょっとおバカ、ってことだよね?調べたわけじゃなく、この映画見て思ったことなんだけど。考古学徒のエヴリンの唇は男ならみんな奪いたくなる深田恭子型ぷっくりタイプ。彼女の唇が奪われるシーンが多かったから思ったんじゃないっ!
愛妾アナクスナムンがかわいかった(役者は南米人らしい)。彼女の蘇生に執念を燃やし、ついにかなわなかったイムホテップは悲劇の人。同情こそできても悪くいえない。彼らの愛が結ばれない限り続編が出るだろうと予感するのは、実際に出たからじゃないっ!
リック役のブレンダン・フレイザーがカッコいいという説もあるが、ぼくも男だからパスしちゃいます。でも、イムホテップに魅了されるのはなんでだろう。男から見ても彼はセクシーなのかな。なんといっても愛の成就に一途にマイ進するところがいいんじゃない? この思いってぼくよりも女性のほうが感じるんじゃない? 結局、この映画って、ミニワルはいるけどマジワルはいないんだ。これもデートのための映画の条件かな。

(4)ブラック・ウーマン
あなたは黒い魔術師
巨大な石柱の林立する神殿の奥深く
軽く微笑んで呪文を唱えると
王といえども捕らえられムチ打たれる

あなたは黒い女神
天上の黄金の玉座に座って民を支配する
二つの瞳が妖しく光を放つと
騎士団が白馬に乗って駆けつける

あなたは黒い獣
ベッドでは司祭さえも奴隷になる
地底からサタンの腕が突き上がるまで
麻薬を焚きこめ幻の快楽に溺れさす

ブラック・ウーマン
その名はアナクスナムン
彼女はひたむきに
愛を捧げるだけの美女
愛の力に戸惑うエジプトの男たちは
サハラの砂煙に彷徨い
赤道直下の火炎に火傷し
ナイルの濁流めがけて転落する

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●『がんばっていきまっしょい』

1998年

           監督/脚本:磯村一路
               音楽:リーチェwithペンギンズ
               出演:
      篠村悦子(悦ネエ):田中麗奈
        中崎敦子(ヒメ):清水真美
        矢野利絵(リー):葵 若菜
     菊池多恵子(ダッコ):真野きりな
    中浦真由美(イモッチ):九積絵夢
入江晶子(コーチ ベレンコ):中島朋子
         関野大(ブー):松雄正寿

 (1)少女は海を眺めていた
少女は海を眺めていた。
 キャッチ、ロー キャッチ、ロー
砕かれた無数のガラスが夕焼けに輝き、ナックルフォアのボートはその上を滑って、海の果てに眠る黄金を探し求めるために、水平線の彼方に消えていこうとしていた。
「私も海の果てまで行ってみたい」
 すっかり暗くなった街を自転車に乗って帰宅した。
「家出は失敗、誰も心配してくれなかったから。でも、分かった。私は自由なんだ」
 明日は高校の入学式。スレスレで入った愛媛県トップの伊予東高校。「がんばっていきまっしょい」が伝統のかけ声。でも、なんの期待も夢もなかった。決めたのは、ボート部の主将が一年生の教室に勧誘に来たとき。少女の心に夕日のボートが蘇った。
「仲間を得て、黄金を探しに出かけるんだ」
 海のそばにあるクラブハウスは「アンティークな洋館」伝統の分だけ積もったほこりとクモの巣の男の館。女子部創立のため一人一人に声をかけ、少女はとうとう新人戦出場までこぎ着けた。少女たちはどこまで行けるのか?目標は琵琶湖?全国大会出場めざしてがんばれ!

 (2)黄金の夢を抱いていたころ
「アンティークな洋館」は輝いてはいなかった。すっかりほこりとクモの巣の館になり、役割を終えていた。
「私はここにいた。ここで黄金を発掘していた。涙が流せる青春だった」
 そう語るように5人のクルーはすっかり満足して、洋館と同様くすんだ写真となって壁に貼られていた。
写真の中の少女の一人は篠村悦子(悦ネエ)といった。彼女が奔走し4人の仲間を集め、夢をかなえたのだった。
「私の青春はボートしかなかった。それは黄金でできていた」
 こんな「無言」のナレーションが入って20年前にジャンプする。昔だって青空帰宅部が多い中、自ら女子ボート部を創立した硬派の篠村をはじめ全員、根っこは運動神経の鈍い文化部タイプ。うるさい女子の先輩もいなく、自己満足で終わりそうなスタートだった。しかし、いったん火がつけば精根尽きるまで止まるところのないタマばかり。2年生秋までキャシャな身体で挑戦し続けた。誰だって夢や青春はある。けれど、黄金に変える魔法は努力を積んだ者にしか与えられない。温暖な瀬戸内海にふさわしく、一点の曇りないスガスガしい映画だ。

 (3)泣ける部に入りたい
(P)高校生二人と中学生一人の姉妹を持つ親として意見をいってみたいんだけど。
(S)主人公と私たちって近い世代よね。同じ70年代として郷愁がかき立てられるわね。
(P)そういえば、姉が京都の大学、自分もドンジリだがエリート高校というのにはぼくは屈折した気分になるな。ろくな学校を出てないんでね。その意味で、わが子たちにはできるだけ「いい学校」に進学してもらいたい。それがかなわないなら、せめて丈夫でいてもらいたいという気持ちがあるよ。
(S)主人公、なんていったっけ?悦ネエ?が貧血やギックリ腰になって部活やめたいって母親につぶやくと即座に賛成したわね。うちの上の娘がね、あれ見て「うちの親と同じだぁ」っていってた。そりゃ、ホッとするわよ。毎晩毎晩お風呂に入る力もなく寝ちゃうんだから。
(P)一度手をつけたら最後までヤレ!っていえないところがぼくの弱さかなあ。主人公はよくがんばったね。
(S)末の娘がシミジミとね「わたしも高校行ったら泣ける部に入る」なんていってた。
(P)フーン、ぼくは会社で毎日泣いてるんですけどね。

 (4)ゴールするとき
泣き虫だったあいつと
いっしょの部に
私も入った
貧血で倒れた冬
自転車で送ってくれた
私を追い越していたことは
悔しいけれど認めてあげた
背丈 力 度胸
ますます差が開いていくだろう
でも、弱くはならないよ
差がつく分
私なりにガンバル
どっちが早くゴールするか
(それは心のことかもしれない)
どっちがゆっくりゴールするか
(それは命のことかもしれない)
二人とも
早くゴールしたいし
ゆっくりゴールするだろう
そして世界の果てで一緒にゴール

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●『御 法 度』

 
  ・監督/脚本:大島渚
  ・出演:ビートたけし、松田龍平 他

 (1)美少年に揺らぐ新選組
 幕末、京を警備する目的で結成された新選組。隊士募集で2名が入隊した。剣術の実技で合格したのだからいずれも名手である。にもかかわらず一人は色白の美少年。名は加納惣三郎。松田優作の遺児龍平が演じる。
 新選組は厳しい御法度(規則)を設けて、鉄の団結を保っている。加納が入隊してからそれが乱れ始めた。
 男の証である前髪切り落しをせず、スケベ談義に加わらない加納に、同期の田代彪蔵を皮切りに隊士たちは次々と懸想し、近藤局長や土方さえ気がありそうだ。
 隊には怪しい世界が渦巻き始める。男同士の愛を「衆道」といい、現代ほど異端な行為ではなかったけれども・・・。
 やがて加納に懸想していた隊士の一人が殺され、さらに幹部の山崎も襲われる。現場には襲撃者のものと思われる小柄が落とされていた。田代のものだった。隊崩壊の危機を避けるため田代暗殺の指令が、よりによって加納に下された。田代は本当に犯人なのだろうか。
 見届け役の土方は沖田と待ち伏せする間、夕暮れ空に絵から抜け出したような妖艶な加納の姿を幻想する。それは加納に翻弄された土方の内面なのだった。

 (2)闇と光の対決
 美少年といえば本来なら沖田総司だ。幹部では一番若く、いつまでも少年っぽく、そのくせ死の影を負っている。加納は隊に侵入したウィルスのようなもので魔性を帯びた存在。沖田は退治する側に立たされた神の加護あるアポロン。侵略するものと迎え撃つものの闇と光の対決。さて、ぼくらはどちらを加勢するだろう。
 加納は映画史上最強の危険な美少年である。新選組に入った理由は人が斬れるからというのだ。
 美少年であるがために女ばかりでなく男たちからももてあそばれ、やがてこころに魔物が住むようになった。そう、彼の殺人嗜好癖は昨今の事件を起こす17歳とどこか共通性はないだろうか。
 男の同性愛は、日本の社会では本来それほど忌み嫌われるようなものではなかった。西鶴の「好色一代男」では「若衆道(わかすどう)」は一人前の男になるために必要な過程であった。近代になって欧米流のタブー意識が輸入されてから排除されるようになったのだ。
 司馬遼太郎の原作では、加納に慕いよった田代は他の隊士から軽侮されるどころか、ふられ続けて同情をかっているくらいである。

 (3)衝動
 出だしの剣術の場面。俳優の中には少々剣道の心得のある者がいるかもしれないが、殺陣の専門家でもなく、みんな素人のはずなのにどうしてあんなに迫真のある剣術ができるのか。ビートたけしは本当は鋭い動きのできる俳優だったのだ。まるでこの映画のためにとって置いたような新鮮さだ。新選組一の名手である沖田総司役は武田真治だが、身のこなしがとても美しい。殺陣は見どころの一つだ。
 サスペンスでも見るようにどんどん映画に引き込まれていく。とかくベタベタしがちな妖艶世界にきびきびした剣術の気合いが漲り、また気合いに合わせてテンポよく刻む坂本龍一の音楽が効果を奏している。「戦場のメリークリスマス」とは違ってヒットしそうにない音楽だが、ドラマの効果を上げることに徹している。
 このような見せ場を背景にして狙いはもっと奥にあるような気がする。組織の秩序のためには御法度だけでは足りず、加納ら突出したものは謀殺するという非合法的行動。無骨者の集団だからというだけでなく、性欲の他に、体制維持のためにどうしようもなく走ってしまう人間のもう一つの衝動を描いているのではないだろうか。

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●『菊次郎の夏』

  
  監督/脚本/出演:北野武
  出演:関口雄介、岸本加世子、吉行和子 他
  発売/販売元:バンダイビジュアル

 (2)恐るべし! 正男くん
 深夜一人で見ていると、流麗な展開の洋画に比べ、間のびした静止しがちな画面には眠たくなってしまった。
 翌日曜日、見直していると、一人、二人と笑い声が増えていく。子どもたちが集まってきて引き込まれているのだ。子どもたちはひっきりなしに笑い、ぼくもつられて愉快になる。ビートたけしの魅力を思い知らされた。悪ガキっぽいが家族みんなで楽しめるギャグの大盛り。一人で見た時とは印象が大きく変わってしまった。
「菊次郎ってどっちなの?」って疑問が出た。子どもの夏休み中の出来事なのだから「子どものことじゃないの?」っていう意見も出た。ところが悪ガキみたいな男のことだった。恐るべし!子役。ぼくらは子どもを中心に見ていたのだ。男は変なおじさんとして画面を盛り上げる脇役ぐらいにしか思っていなかった。ビートたけしの演技やギャグをもってしても子役に食われたのだ。そもそも子役の顔はそれだけでもおかしい。
 宮沢駿映画を多く手がけた久石譲の音楽は、ジリジリ汗だくの暑い夏というよりも、春もしくは初夏のさわやかさ。バス停のシーンなどは、子どもたちは「トトロ」を思い出したという。偉大なるべし宮崎ワールドの侵略。

 (1)ヒマな人たちの世界
 夏休みになると、友達はみんな家族ぐるみでどこかに出かけていく。小学3年の正男くんは連れていってもらえる親がなく取り残されてしまう。偶然知ったお母さんの写真と住所。一人で家を飛び出した。ところが不良たちにカツアゲされてしまう。通りすがりの夫婦に助けられ、菊次郎おじさんに連れていってもらうことになる。
 街の不良たち以上にワルな菊次郎はすぐには出かけない。女房にもらった旅費を競輪でスってしまう。ヒッチハイクが始まる。さあ、菊次郎の活躍する夏の始まり。 日本のどこにでもいるようだ。似たようなヒマな人たち。次から次への出会い。愛称しか知らなくても、どんどん親しくなっていく年頃ってものがある。菊次郎はいつまでもそれをやっている。
 さて、正男くんはお母さんに会えただろうか。目的地にようやくたどり着き、家を探し当てる。けれど・・・大丈夫。正男くんは菊次郎を通していろんな大人たちと出会った。将来、彼らのような気ままな大人になるのか、勤勉な大人になるのか、それは全然分からないけれども、間違いなく選択肢は増えた。少しくらい行き詰まってもすぐに新しい生き方を見つけることがきっとできる。

 (3)癒しとしてのダンス映画
 いつでもヒマな浅草住民の菊次郎だが、豊橋まで子どもに付いてきた(付き添ってきた?)その理由が一つ分かった。
 彼のお母さんも近くにいた。老人性痴呆症の母がなんの縁か隣町の施設に入所していたのだ。生家を巣立って以来、ロクすっぽ親孝行などしてこなかっただろうけれど、気にならなかったはずがない。
「お母さんに会いに行く」このテーマは二人共通のテーマだった。そして二人ともお母さんの姿は見ることができたが、対話することはできなかった。ただ、無事な姿を見て満足するしかなかった。
二人を慰めるように出てくるたくさんのダンスシーン。麿赤児の暗黒舞踏、タップ、ロボット、天狗、アフリカンなど。「図鑑」ともいえる多さ。
 映画に挿入されたそれぞれのダンスはみんな「癒し系」に見えるから不思議だ。いや、ダンスってそもそもそういう役目を持ってきたのだと気づかされる。
 ダンスをしなかった者が一人いる。正男くんだ。絵日記に大人のことを描いているから、自分は登場しないのかもしれない。正男くんの活躍を今後見守りたい。

(4)娘たちと楽しめた映画
 今回はうちの三姉妹とともに楽しめた(セックスシーンがあるとみんな緊張してしまう)。正男くんの顔が情けなさそうでかわいかったと大好評。菊次郎から乱暴な扱いを受けるほど人気指数が高まった。
「おとうちゃん、今度は『HANA‐BI』見ようね」
国際的な賞を取ったという映画も気になってきた長女。
 もう一ついうと、三姉妹にこの感想文を読んで聞かせると「おとうちゃん、全然おもしろくないよ」だって。
 「HANA‐BI」娘にせがまれてつい見てしまった。
「菊次郎の夏」を見て「静止画的進展」だなあ、と思ったのだが、「HANA‐BI」は、まんま、画の挿入の連続だった。たけしの作品だという。
 東洋的な抑制された映像の演出の一つとしたのだろうと思う。不思議なリズム感が醸し出されていて、引き込まれてしまった。
 ベネチア国際映画祭で賞を取ったわけだが、念入りな根回しが事前にあったといううわさを聞きいていたが、この不思議なリズム感に審査員たちは魅入ったのではないだろうか。
 そういえば黒沢明監督の演出も静止画的だった。躍動的な画面ながら一コマ一コマが絵画。外国の審査員たちはそんな流れも感じたのかも知れない。

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●『運動靴と赤い金魚』

  監督/脚本:マジッド・マジディ
  出演:ファロク・ハシェミアン、バハレ・セッデキ他

 (1)貧乏に栄光あれ!
 小学生のアリは動けない母に代わって買い物をするが、修理したばかりの妹の靴をなくしてしまう。貧窮のため新しい靴を親にせがむことはできない。翌日から兄と妹は運動靴を交替で履いて通学する。
 イスラムの教えに基づき、男子と女子が午前と午後に分かれる授業だからできることである。遅刻しないために二人は自宅と学校を必死に走り続ける毎日となった。
 ある時、妹は校庭で自分の靴を見つける。兄妹は履いていた子の後をつけるが、父親が盲目と知って引き返す。
 二人の父親は熱心な信仰者。集会所で奉仕をしている。道具を借りて庭師を試みるが、事故を起こしてしまう。
 頼りにならない両親。そんな時、マラソン大会で景品が運動靴であることを知る。ボロ靴のため、一度は諦めていた大会のエントリーを先生に哀願する。
 スタート。運動靴は3等の景品。妹の苦労を思い浮かべながら入賞目指してがんばる。接戦のためもつれ込んでゴールしてみると1等。舞い上がる周囲と違ってアリは愕然として帰宅。妹に苦い結果を無言で報告する。お気楽にプールを群れ泳ぐ金魚たちが、彼の将来はけっして暗くないことを暗示しているのが救いである。

  (2)泣き顔アリ
「菊次郎の夏」の正男に匹敵するインパクトのある顔をした少年アリ。いつもオドオドしている泣き顔。みんなに怒鳴りつけられるのが似合っている。  
 妹の靴をなくして責められたり、八百屋の親父に怒鳴られたり、学校に遅刻して生活指導者に睨まれたり。
 ところが彼は勉強がよくできた。妹の靴を履いている女の子の家に談判しに行くが、父親が盲目と知って何もいわず引き返す。機転がきいて父親の仕事を助ける。サッカーチームの貴重なレギュラー。マラソン大会で景品に運動靴がもらえると知って、申し込みが締め切られたというのに泣き落としで出場する。しかも結果は1等。
 彼って、見た目と違ってかなり優秀なのだ。彼の泣き顔は彼個人の問題じゃなかったのだ。
 家族はマイノリティで生活が貧窮している。彼の泣き顔はどうやらそこから来ているようだ。しかし、彼の本来のよき資質はそれとは関係なく成長しているのだ。
 1等のため運動靴がもらえなかったと重苦しい面もちで帰ってきて、痛んだ足を洗濯場のプールに浸す。水中では金魚たちが祝福するようにすり寄ってくる。金魚こそ未来の光なのか。 

(3)運動靴と金魚
「運動靴」は分かるけど「金魚」ってどういうこと?という疑問がある。
 結末をもう一つ考えてみよう。3等どころか1等になったのだ。お祝いに運動靴くらい誰でも買ってやっただろう。プレゼントをもらえた妹の笑顔、張りつめた両親もつかの間の笑顔、と幸福な気分で終幕にできたはずである。それではあまりにつまらないのだ。ただの子ども向け教育映画になってしまうだろう。
 映画は、家父の篤い信仰心、愛に満ちた家族、神話の生きる学校、やがてイランのサッカーや陸上競技が国際的な舞台で活躍する予兆を漂わせている。検閲の厳しいお国事情から表面的にはそんな描写を要求したのかもしれない。ハッピーな結末なら国策のまんまということだ。
 はしゃいでもいいはずの少年の行動を重くかつ苦く抑制することによって、対照的にフワフワとした金魚が存在の光彩を放ち始める。金魚という小道具が少年の明日を象徴するものとして。いったい金魚ってなんだろう。
「運動靴」が重苦しい現在を強烈にアピールしており、「金魚」は社会に底流する希求される変革のシンボルとして未来を予告するもの、と考えられないだろうか?

(4)
貧乏物語は日本にも昔あった。貧乏なほど精神は気高くなる。しかし、この映画は日本昔話ではない。イランの現在である。
「子どもは未来の担い手」などという古くて臭い思想はイスラムの宗教家たちに任せて、自由の担い手である監督は宗教国家に対し強烈だが巧妙なプロテストを仕掛けている。
イランでは、宗教政策的な制限があって、子ども映画ぐらいしか思いが盛り込めない。
そこでイラン映画では優れた子ども映画が次々と誕生するのだという。
子ども映画で思いの丈を思いっきり述べようというのだから優れているのは当然だ。テーマが子ども映画にとどまらないのもまた当然ということなのだろう。

映画って、ストーリーを楽しむだけじゃなくって、外国の珍しい風物を描くことも役割の一つだったのだと久々に感じた。昔の日本人はハリウッド映画に描かれた贅沢な生活をうっとりとしてみていたのだ。
イラン映画は珍しい。珍しいイランの風景を見ることができて楽しい。
靴直し、パン焼き、男女共学でない小学校。男の子は日本と代わらないが、女の子のあの制服はわが家の子どもたちには異様に見えたようだ。チャドルというのだろうか。でもスキップして帰宅するのは同じだ。
アリ少年がやたら街頭の水道で水を飲む。それもわが家の子どもたちには不思議に見えた。
自動販売機なんてないし、イランの水道水はきっとおいしいんだよ、と説明した。
子どもはのどが渇くものだ。

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●『ワンダーランド駅で』

1999年 アメリカ

  監督/脚本:ブラッド・アンダースン
音楽:クラウディオ・ラガッツィ
  出演:
エリン・キャスルトン:ホープ・デイヴィス
アラン・モンティロ:アラン・ゲルファント
     フランク:ヴィクター・アーゴ
     エリック:ジョン・ベンジャミン
     ジュリー:カーラ・ブオーノ
     ブレット:ラリー・ジラード・ジュニア
     ショーン:フィリップ・シーモア・ホフマン

 (1)孤独 詩集 水族館 出会い
 夜勤が明けて帰宅すると同棲していた彼が出ていくところだった。理由なんてバカバカしいもの。残されたエリンは詩集を読んだり、水族館に出向いて心を癒そうとする。母親はお節介にも新聞で「彼」を募集してしまう。それに飛びついた男たちが賭けをした。彼女をその気にさせたら勝ち。だが、エリンはそんなものに引っかかる馬鹿な女ではなかった。ところがである。アンドレがラテン系の強さでとことん迫ってきた。「さびしいのに満足しているね。ボサノヴァと同じだ」鋭く見抜くアンドレに翻弄され、彼女の心がとうとう傾いていく。
 まぬけな男たちの中に賭けに加わらなかったまじめな男アランがいた。ダメになった父親と家業の配管業に複雑な気持ちを残しながらも、海洋生物学に心引かれて学校に通い、水族館でボランティアをしていた。そんな彼が金貸しのフランクから水族館を困らせる悪巧みを持ちかけられる。
 エリンとアラン。二人はそれぞれの人生行路を進んでいく。二人でワンダーランド駅に降り立つときを待ちながら、観客はこう思う。「もどかしいな。リアルな人生って映画のようにはいかないものなんだ・・・」

 (2)この映画、癒し系です
S)まるでフランス映画みたい。背景に流れた音楽はボサノヴァでなくシャンソンでも似合うような気がした。場所もボストンでなく、パリでもよかった。
P)エロイところグロイところが一つもないのに終始画面に溢れていたセクシーさにはすっかりとろけてしまい、しばらくは立ち直れなかったよ。それだけフレンチな恋のドラマに飢えていたんだな。
S)でも、この映画って、こんな恋がしたいっていう見本になるようなものが描かれてないんじゃない?
P)そこがこの映画の斬新なところなんだろうね。これでもかこれでもかってすごいラブシーンを突きつけられて降参するのがこれまでの定番だったと思う。「映画のような恋がしたい」なんていう言葉が出るのもそういうところからだったと思うよ。
S)するとこの映画って、別に新しい恋の形を見せてくれたわけじゃないのね。
P)癒し系ってゆーのかな?カウンセリングしてもらったっていうことだと思うよ。「あなたの伴侶はいつでもそばにいます」って気づかせられたんだ。
S)ねえ、ねえ、ちょっとぉ、それってすごくない?

 (3)21世紀は詩集をひも解く
P)うん、カウンセリングってすごいよ。
S)そんなことじゃなくってぇ。「いまあなたは誰かとつきあっているようだけれど、本命は、というか、ソウルメイトは隣にいます。振り返ってごらんなさい」っていっているわけよね。
P)・・・なんでそういうことになるの?
S)要するに、どこにゴールを置くか、それ次第よ。
P)そんなこといったら、せっかくの感動の名作がなんだか不倫の勧めになっちゃうよ。
 カウンセリングってのはね、言葉のアヤなんだ。相手が納得すればいいんだよ。
S)れれれ?ともかく、新しい恋の形はやっぱり提案されているよね。21世紀はこれで行くかってやつが。
P)出会いサイトでどんどんデートするってこと?
S)アホー。ラテン系の積極果敢な攻めにクラクラするのが20世紀型だとするとね、21世紀型は隣のお兄さんと淡々としたお付き合いをするってことなのよ。
P)・・・なんか怪しいなあ。
S)彼女、同棲していた男に出て行かれたとき詩集を手にするよね。ほれ、あんたも読書しな。

 (4)静かな時間を一緒に
 何でこんな男といたんだろう
 リアルな生活のできない男
 ひとりになって最初にしたことは
 父の詩集を手にしたこと
 「家族の絆」
 落ち着いていた父とは正反対の男だった
 すぐに怒るし涙で顔をグチャグチャにもした
 それがなんだかピュアに思えたんだ
 五月蝿いのはけっきょく駄目だったってことかな
 一人でいるのが好きなみたい、私って
 べつに寂しくもないし
 それが怖いわけでなし
 孤独な時間が欲しい
 ゆっくり納得しながら生きていきたい
 男が要らないわけじゃない
 家庭を拒むわけじゃない
 私を引っ張ってくれなくていいの
 そっと寄り添っていてくれる人がいいの

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●『ライフ・イズ・ビューティフル』

  ・監督/脚本:ロベルト・ベニーニ
  ・出演:ロベルト・ベニーニ、
      ニコレッタ・ブラスキ 他



(1)素朴な物語だが語るに難しい物語
 アレッツオ(イタリア中部)にやってきた男二人。ブレーキ修理の邪魔といわれたグイドは手を洗いに農家に近づくと、女性が上から落ちてきた。蜂に刺されたという。
「今日は 姫さま」
 グイドは蜂の毒を吸ってやってドーラを手当する。
 叔父のホテルに雇われたある日、いたずらして逃げ回っているうち小学生の列に飛び込んだ。
「今日は 姫さま」
 倒れた拍子に抱き合ったのが教師ドーラだった。
 二人の間にできた息子ジョズエとグイドはナチスのユダヤ人狩りで強制収容所行き。ドーラも着いていく。
「今日は 姫さま」
 離れ離れのドーラを監視の目を盗んで放送で励ますが、過酷な収容所暮らし。優しい叔父は既に毒ガスのシャワーを浴び、我が子も危ない。グイドは賭けに出る。
「これはゲームだ。絶対にエラーしちゃダメだ。一等賞を取れよ」
 死を背負った悲惨な毎日を、息子に悟らせまいと体を張っておどけた芝居を続ける。家族は再会できるのか?

(2)イタリアのチャップリン
 チャップリンだ。チャップリンの精神だ。ロベルト・ベニーニ演じる主人公グイドを見続けて気付いた。
「イタリアのチャップリン」
 ヒトラーを痛烈に茶化したチャップリンだが、彼もベニーニも映画の中では独裁者だ。監督・脚本、さらにグイドに扮し、お飾りの美女と従順な少年を従え、他はすべて影。大島渚の「御法度」とあまりに対照的ではないか。「御法度」では美少年を核とする取り巻きたちは皆粒ぞろい。各自自在に動いている。それに比べ、、この映画はベニーニの全身全霊を賭けた独演会である。
 しかし、ナゾナゾの好きなインテリ医者は例外で、妙に印象的だった。グイドが収容所で死への歩を進めているというのに、ウェイターにしたのも謎解きを手伝ってもらいたかったそれだけだ。現実の見えない自己中心的教養人のカリカチュアだろう。
 ずーっと軽笑させられっぱなしで、すっかり油断した最後の最後、感動が大爆発を起こす。涙が突如ほとばしる。ベニーニの技芸にしてやられたのだ。
「勝ったよ!」子どもの口から出るのだが、誰もがグイドの声と重ねるに違いない。ベニーニ万歳!

 (3)ぼくたちの忘れていたもの
 男が女を得るにはどんなに力を注がねばならないものなのか、家族を守るにはどんなに知恵を絞らねばならないものなのか、それには別に大きな筋肉なんてなくっても、全身みなぎる情熱があればむしろそれに勝る。
 金も力も組織もないたった一人の男の歩んだ道は、一人の女を得、小さな本屋を営み、一人の子どもをもうけただけである。逆玉の輿になったわけじゃない。ビッグビジネスをものにしたわけじゃない。ユダヤ人でなければ普通の平穏な家庭生活を送っていたはずだ。イタリアの太陽のように燦々と光り輝くこころがあれば、既存の権力にだって、一方的に襲ってきた軍隊にだって勝てる。
 彼にはもう一つ並外れた力が備わっていた。現実をゲームとみなして、したたかに勝利の一点を目指す想像力だ。子どもを恐怖の現実にさらすまいと、多分自分を鼓舞する意味でも壮大な仮想を構築し、圧倒的優位に立つ敵に最後まで負けない戦いを挑む。
 ドイツ兵の収容所規則を通訳するフリをして、ゲームの説明に置き換えるところはみどころの一つだろう。
 惜しみなくそそぐ愛情と、果敢に闘う想像力。ぼくたちから失われてしまった力をいま見せつけられる。

 (4)献詩 陽気な王子

陽気な奴が町にやってきた
グイ
おまえは町の外ですでにみそめていた
春風のようなドラを

こんにちは お姫さま
文無しの王子だが
あなたを冠にすれば
きっと王になれる
オペラを見に行きませんか
ロゼのドレス姿を見てみたい
白馬でお迎えに行きましょう

親が決めた婚約者なんて
どんな芝居見たって
ろくでもないよ
女は退屈を好まない
わたしの宮殿には
とっておきの舞台がある
毎夜
道化の王が
あなただけに
喜びを差し上げます

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●「マトリックス」

           1999年アメリカ
     脚本/監督:ウォシャウスキー兄弟
 ネオ/アンダーソン:キアヌ・リーブス
    モーフィアス:ローレンス・フィッシュバーン
    トリニティー:キャリー=アン・モス
エージェント・スミス:ヒューゴ・ウィービング

 (1)ネットの救世主伝説
 遅刻が多い会社員アンダーソン。毎夜「ネオ」のネームでインターネットの泥沼にはまり込んでいる。怪しげな取引もしていて「救世主」といわれている。
 夜、女トリニティからコンタクトされ、なにやらささやかれる。翌日、謎の男から警告の電話が来るが、エージェントから逮捕される。ハッキングはどうやら別件らしい。釈放されると再び女が現れ、伝説の人物モーフィアスが紹介される。
 モーフィアスの説明がもし真実なら、人によっては精神崩壊を起こしそうなことだ。ネオは1999年にいると思っていたが、じつは2199年。AI(人工知能)の奴隷にされて、ていのいい夢を見させられているに過ぎないのだ。そもそも人間はAIによって植物化され、電気の供給源に貶められているという。
 人類の解放のために救世主の生まれ変わりを捜していたと告げられ、覚醒することを求められる。
 身内の裏切りやイカロボット(イカボッドではない?)によって同志たちが次々と倒れていく。事態の切迫する中で、彼が本当に救世主なら早く目覚めて欲しい・・・。

 
(2)ワイヤーと電話線を駆使
 空間も時間も自由自在、思いのまま。空間はワイヤーで、時間は電話線で。つまり、アクションには香港流にワイヤーで俳優たちをつり上げ、映画の登場人物たちは現実と仮想の移動には電話線を使う。サイバーパンクなくせにアナログな映像には、バンザイしてしまったよ。
 のっけから謎めいた女トリニティ(キャリー)が映画の魅力のすべてを象徴していた。
 電話を盗聴し、アジトを急襲する警官たち。ついニタつきたくなるいい女が一人いた。サディスティックな気分で手錠をかけようと近づいていく。
 遅れてきたエージェントが外でいい当てている。
「あいつらいまごろ皆殺しだ」 
 その通りだった。モデル出身らしい引き締まった顔。細身のボディにピッタリ張り付いた黒革のボディ・スーツ。それが美しいキック・フォームで空中に停止!
 見たことないカンフー・アクション、かっこいいサングラス、ロング・コート、ジャックナイフのような携帯電話、モーフィアス(ローレンス)のニヒルな、時にはカワユい表情。銃のド肝を抜く登場。空薬莢が花火のように舞い、鈴のように美しい音色を弾けさす・・・。

(3)さあ! ネブカドネツァル号へ乗船
 こんな男はどこにでもいる、といえばいいすぎか。一見どこにでもいる会社員。けれど逮捕されてみるととんでもないことをやっていたりする。いやいや、逮捕はされないし誰にもバレないで危ないROMを販売したり、掲示板なんかを仕切っていたりする(たぶん)。自分の会社でよく遅刻する者やカスリ傷なんかしてくる者がいたらご用心だ。
 政府(もしかしてAI)にとっては危険人物。だが、ひょっとして「救世主」。そいつがヘンなんじゃなくて、君たちが目覚めぬ子羊なのかも。注意して見極めてほしい、ウッカリ密告しないように。
 君たちは夢をまじめに解読したことがあったろうか。旧約聖書に、訳の分からない夢を見て眠れなくなったネブカドネツァル大王のことが記述されている。そう、その名はモーフィアスらの乗り物に使われていた。彼の夢はダニエル少年によってめでたく解読され、繁栄の治世を築いたのだ。
 「マトリックス」は、この世界のリアリティに物足りなさを抱いている君たちへの解答だ。返答は、ネブカドネツァル号への乗船! 

(4)救世主伝説
        キスで蘇った男

救世主
それは死から蘇る男
羨望された男というものは
嫉妬に殺されるもの
人々は必ず後悔し甦りを待つ
多くの預言者は殺され
そして墓を崇められてきた
《もし生き返ったら
《神とも崇めよう
あなたはしかし最後の
そして真実の預言者
過ちはもう繰り返してはならない
あなたが死に克ち勝り
この世に復活したならば
人々の嫉妬を超越し
心を勇気づける
復活は喜び
私たちの大いなる喜び
あなたは深い過ちから救い出してくれる方
私たちを永遠の眠りから目覚めさせ
圧政から解き放ってくれる方
いつまでも死の国に彷徨っていてはいけない
私はあなたを愛している
どうか目覚めて
全ての人々を愛してほしい
涙に濡れた唇を
あなたの口に捧げます

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●『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』

  ・監督:アナンド・タッカー
  ・出演:ジャクリーヌ(エミリー・ワトソン)
      ヒラリー(レイチェル・グリフィス) 他


(1)姉妹の人生
 音楽一家の姉妹は母親にレッスンを受けた。姉ヒラリーはフルート。妹ジャクリーヌはチェロ。姉から先に芽を出した。姉と一緒にいたい妹は夢中になって練習する。そしてとうとう姉を超え、さらに世界にデビューする。
 姉は凡庸な内に演奏活動を締めくくり、恋愛を経て田舎での平和な生活を手に入れる。妹も姉のような生き方に憧れるが音楽は捨てられない。華々しい演奏活動を続けながら1967年結婚する。相手も超一流の音楽家だ。
 しかし、本当に願ったあり方ではなかった。姉と同じ事をしたい、それだけの思いが大きく外れて「普通の生活をしたい」という望みとチェロを捨てたら世間知らずな女になってしまう懼れにジレンマする。
 人生の苦悩はさらにのしかかる。多発性硬化症に罹り、それは着実に進行していったのだ。病に耐える中、夫は招聘されたフランスで不倫を楽しんでいる。
 「あなたは自分の思うような人生を送れない。でも心配しないで。あなたはけっして不幸ではないわ」
 妹が姉といっしょに遊んだ海岸でこんな啓示を受け、畏怖して抱きあった。
 長い時を経て、ふたりはそれを思い出すのだった。 

(2)姉妹の抱擁
 一番いいシーンって小さな姉妹が海岸で抱き合うところだね。その前に波打ち際に立っている黒い影に啓示を受けるんだけど、二人が抱き合えばなんにも怖いものはないというようないじらしい感じがした。ニットの帽子、セーター、チェックのスカートがステキだった。このシーンは繰り返されているが、その意図は何だろう。姉と妹は一心同体で人生を歩むということだろう。弟がポケッとしているのはその欄外にあるということだ。
姉から引き裂かれるように世界へ旅立っていく妹。そして大人への歩みが始まる。
 姉と妹どちらが幸せだったのだろうと自問してみると総量的には同じではないかという気がする。
 姉は音楽では平凡だったが愛を手に入れる。しかし誇りであると同時に困った妹を切り捨てられず抱えていく。妹は名声という何よりも粒の大きな宝石を手に入れる。代わりに愛を理解できない。姉は自分を包容してくれる相手に出会い、妹は息の詰まる一流音楽家の同志と出会う。さらに不治の病に罹病する。二人の生き様は、人生とはどう転んでも抱えていかなければならない負荷があるものだということを観客に突きつける。

(3)姉妹の見た黒い影
 昨年(1999年)だったか、ニューヨーク在住のヨーヨー・マがタクシーに愛用のチェロを忘れたとニュースになった。無事出てきたが、このチェロはジャクリーヌの愛用した「ダヴィドス」なのだ。まさかヨーヨー・マ、宣伝に一役買って映画のシーンを演じた訳じゃないだろうね、と疑いたくなる。映画にはそう思わせる魔力が練り込まれている。
 この映画のすごさは豪華なセットを惜しみなく灰にすることや、スリルあるアクションが弾けるというようなことではない。毎度お馴染みのお涙ちょうだいになりそうな伝記映画を謎解きのようにしたところにある。
 未来から自分の人生の出発を見守るという、時間の円環性を表現してみせたことは全くの意表外だ。波打ち際に立っていた黒い影の正体が最後に分かるけれど、これがほんとにほんとにショックだったし、映画中、最高の感動シーンだった。哲学さえ感じた。しかもこれを余計な道具を使わずにフィルム構成だけで巧みにやってのけた。
 ジャクリーヌは実在の人物で、指揮者バレンボエムの妻だが、バレンボエムは現在58歳。まだまだ若い。

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●『ビッグ・リボウスキ』

   監督/脚本:ジョエル・コーエン
   製作/脚本:イーサン・コーエン
   出演:ジェフ・ブリッジズ、ジョン・グッドマン
ジュリアン・ムーン、スティ-ブ・ブシェ-ミ 他
   発売/販売元:アスミック・エース

 (1)大陸性ホラ話
 「ホラー」ではありません。「ほら」です。漢字で書くと法螺。引退したばかりで退屈している初老の飲んだくれ親父が、隣に座ったお客を喜ばせようとちっぽけな出来事にたくさんの尾ヒレをくっつけた長話…のようなもの。ストーリーなんてどうでもいいみたいだが、大勢の人間が絡んでいて、ちょっとした謎解きもあってなかなかうまく説明ができない。案外複雑なのだ。
 不精者デュードは本名ジェフ・リボウスキ。気楽な日常のある日、暴漢に襲われる。妻に貸した金を返せという。同じリボウスキ姓の金持ちジェフリーと間違われたのだ。脅しのネタに、大事な敷物に小便を掛けられてしまう。弁償を求めて金持ちと会ったことで物語は始まる。
失業中のデュードは金持ちのジェフリーに、負け犬呼ばわりされて以来不愉快な思いをしているが、間もないある日呼び出される。妻のバニーが誘拐され身代金を要求されている。バニーは金遣いが荒く、ポルノ映画のプロダクションにも借金をしている。バニーはどこへ消えたのか。ジェフはちょっと危ないボウリング仲間ウォルターと事件に引きずり込まれていく。

 (2)アメリカ版風俗漫画のヨシオ
 デュードを見て「週刊漫画」(芳文社刊)に長期連載されていた「独身アパートどくだみ荘」(福谷たかし)の主人公ヨシオを思い出した。70年代から引きずってきたボサボサの長髪とまぬけで気ままなその日暮らし。
 違うところといえばヨシオは、それなりに勤労意欲を持っている。デュードの場合は、全米ベトナム反戦運動の拠点シアトル大学七人衆の一人というインテリくずれ。全共闘のなれの果てみたいな人物だ。最初から冴えなかったわけではない。くたびれたんだろうなあ。癒すべく風呂につかって、スピリチュアル・ミュージックを流し、ロウソクで光を演出し、マリワナをやる。
 ハイになったイメージが空を飛び、裸女がトランポリンで跳ね、ボウリングの妖精がダンス。エクスタシー状態。肉体なんてめんどくさいとヴァーチャル・セックス。
 ボウリング・チームの一人ウォルターはベトナム帰りのちょっとイカレた男。だが行動力抜群で、ドラマをドシドシ進行させていく。彼もまた、70年代を引きずっている。人権思想を持ち出してみたり、体制としてのキリスト教に反発してユダヤ教に改宗したりと彼なりのアイデンティティを模索した形跡が見え隠れする。

 (3)アメリカン・グラフィティー
 「スタンド・バイ・ミー」でも、主人公の少年がたき火を前にして、仲間を楽しませるために懸命にバカ話をしては喜ばせている。アメリカの伝統的な語り芸が「ビッグ・リボウスキ」に結晶したのだろう。ホラやバカはどこかにウィットを忍ばせていなければならない。デュードのどこがビッグなのだろう。
 同世代の登場人物たちの行動にはみんなどこかしら良心的な面がある。友人のウォルターは人種差別的発言に敏感。ボウリングのライバルであるクインターナは自らヘンタイであることを告白して回った。ウォルターがボウリングの際に銃を突きつけた相手は良心的兵役拒否者。デュードの大家は舞踏が趣味。子種だけ欲しいというモード・リボウスキはフェミニスト。主人公のデュードはけれどお人好しなだけのような気がする。底なしのお人好し、それがビッグということなのだろう。90年代は優しさの時代だったということなのだ。クリントン大統領も同世代人。彼の場合はしまりのない好色家。ナンパ癖が出色だろう。大統領になる前は、カウボーイハットにブーツスタイルで夜な夜なナンパしていたという。彼にもいえるかな。ビッグ・クリントンってね。

(4)近況:
 1年前、ソ連版「アンナ・カレーニナ」を見た。ソ連映画はいつもいつも退屈で消化不良のまま終わっていたので、今度こそはと、途中で眠ってしまっても、目覚めては巻き戻し、繰り返し繰り返し見た。それでようやっと納得したつもりだった。けれど、今回ソフィー・マルソー主演の映画を見たところ、テーマがよく分かった。不倫映画だったのだ。
 グレタ・ガルボやビビアン・リー主演のハリウッド映画もある。これらも見てみるつもりだが、毎度毎度惜しまずおっぱいを見せてくれるソフィー映画にやはり軍配をあげなければならないだろう。

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●『ハピネス』

  2000年日本公開 アメリカ

   監督:/脚本:トッド・ソロンズ

 出演:三女ジョイ:ジェーン・アダムス
      アレン:フィリップ・シーモア・ホフマン
     アンディ:ジョン・ロヴィッツ
  長女トリッシュ:シンシア・スティーブンソン
   長女の夫ビル:ディラン・ベイカー
長女の息子ビリー:ルーファス・リード
    次女ヘレン:ララ・フリン・ボイル
    父親レニー:ベン・ギャザラ
     母親モナ:ルイーズ・ラッセー

(1)オナニスト群像
 サエないデブっぽい男と神経質そうな女ジョイ(ジェーン・アダムス)の会話。別れ話がネチネチと続く。
 精神分析医ビル(ディラン・ベイカー)に語る男アレン(フィリップ・シーモア・ホフマン)。男なら誰でも持つヤリたい悩み。ビルは飽き飽きしている。
 (え?退屈そうだって?後で怖いとこあるから。怖いの嫌い?暴力や血がドバッはないけど)
 ビルはコンビニで美少年雑誌を買ってオナニーをする。彼はセックス・レス夫婦。でも、息子ビリー(ルーファス・リード)の悩みには親身になって乗ってあげるいい親父なんだ。「クラスで射精したことないのぼくだけなんだ」っていう懐かしい悩み。こんな悩みをぶっつけるのに最適最強の親父はビル以外にいないよ。
 それなのに困った親父なんだ。オナニーでやめておけばいいものを手を出すなんて・・・。
 ビルのクライアント、アレン。電話帳片手の変態電話魔になってこれまたオナニってるんだ。けれどじつは隣室の彼女ヘレン(ララ・フリン・ボイル)に懸想している。二人がもしデキたら、M男にS女の関係になるかなって余計なこと思っちゃうんだけど。

(2)長女トリッシュの家庭
 トリッシュの笑顔ってステキだな。でも、ちょっと平板じゃない?彼女の生活がそういうことなんだろうね。だから無神経なことをジョイにいってしまう。そんなことよくある、普通だよ。ノホホーンってしてるんだよね。長女って支配者的かノドカかどっちかじゃない?
 息子ビリーの悩みは覚えがあるよ。ぼくも一生懸命、百科事典調べたもん。射精しちゃえば積年の疑問はたちまち氷解して、ハッピー。トリッシュとビリーだけならホノボノとしたホームドラマができるだろうな。
 問題はトリッシュが安泰している間に夫ビルの性癖がどうしようもないところまで来てしまっていたことだ。 失われた在りし日の自分を重ねて、小学生の男の子に感情移入する気持ちは分かる。でも息子の友だちを×××だなんて。な、何の葛藤もなくスイスイ実行するか?フツー。決断の葛藤を描写しないことが流行なのかな?
 こんな夫を責めるシーンも嘆くシーンもこれまたなく、トリッシュはさっさと離婚して両親のマンションに同居する。たぶん、これで忙しくなった両親。よりが戻って父親レニー(ベン・ギャザラ)の老いらくの不倫もしばらくは治まるんでしょうね。メデタシ、メデタシ。

(3)幸福なメイプルウッド家の姉妹たち
 メイプルウッド家の三姉妹と同様、我が家の三姉妹もそれぞれキャラが全然違う。どっちかというとノー天気な長女と比べ、妹たちはクセありだ。
 次女ヘレンはライター。男を手玉に取るような勝気なところがあって妹に男を紹介する余裕があるが、自分を壊したい欲求もあるように見える。でなければ変態電話にリダイヤルする?自立型のようだけれど危なっかしい。なにしろ悩みは「レイプ体験がないからいい作品が書けない」ということなんだから。
 三女ジョイは最初ッから壊れている。というより、自分を作れないでさまよっている。男を傷つけるのも、だまされるのも意志がはっきりしていないからだ。男はだます気がなくてもだましてしまうものだよ。元々、男はいたずらや冒険が好きだ。難民教育センターで知り合ったヴラッドがダメモトで「500ドル貸してくれ」というと、ジョイはホイッと与えてしまうタイプ(ぼ、ぼくともつきあってよー)。どうやら二人とも男に傷つけられたがっている。自分を大きく変える決定的な出会いに飢えているんだ、きっとね。自分の生活がシロップのような幸福に満ちあふれているからに、違いないな。

(4)幸福を手にするには
「幸福を求めることがすべての行動の動機であり、人生の目的である。けれどこの目的を手に入れるには、それを直接求めようとしないことである」
 19世紀のイギリス人思想家J.S.ミルの言葉をもじってみたが、自分が幸福になるためには他人の幸福を願うことだといっているようである。登場人物たちは誰一人そのことに気づいたものはいない。人は奉仕することによって深い満足を覚えるものなのである。

(5)幸福よ、去れ
幸福よ、去れ
いいんだ
消えてなくなれ
目の前にある幸せは
いらない
それはつきない欲望
すぐに飽きてしまうもの
海のように乾かないリアルを求め
涙をぬぐって旅に出る
ビルの谷間で眠りこけ
森の中で小さな食事をする
川を渡っていく先に
あなたは
きっといるんだと

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●『ノッティングヒルの恋人』

  
 監督:ロジャー・ミッチェル
 出演:ジュリア・ロバーツ、ヒュー・グラント 他
 発売/販売元:ギャガ・コミュニケーションズ、松竹

(1)シュール(超現実的)だけどステキ
 ノッティングヒル。ノミの市のある街。青いドアの家。ヘンテコな男スパイクと同居。旅行書専門店を従業員1名と細々と経営している男。バツイチ。
 男は生活にくたびれていて、巷間の芸能ゴシップなどに振り向く余裕がない。だからスキャンダルで傷心のハリウッド女優が新しい恋を求めてドアの外に立っていたとしても、無知な彼なら、何も知らずに純粋にいい女として恋をすることが出来る。すごい女から果実を分けてもらうのではなく、対等にウザったい日常から救い出しあえる相手として。女はリタ・ヘイワースの言葉を引用して男の気持ちを探る。
「男はベッドで夢を抱き、現実の女と目覚めて幻滅する」
 すごい女とやりたい、そんな思いで群がる男たちは振り払ってきた。男は言い返す。
「今朝の君は一番きれいだよ」
 国民的歌手安室奈美恵をぼくと再婚させるなんてできないように、こんな愛のドラマは現実的ではないが、だからこそ何も知らない男なら恋の成就もありそうな感じがする。現実的ではない、超現実的(シュール)な出会いはやがて妙な現実感を持つにいたるのである。

(2)ウプシーデイジー
 マザーグースに出てきそうなこのノンセンス。「ちっくしょー」みたいなものだろうか。女の子や「ヘナチョコ」が使う言葉だ。でも、50年も前のボキャブラリだ。さすが「不思議の国のアリス」など児童文学の名作を生んだ国だ。ここはイギリスなんだとアピールしている。
 映画はイギリスの冴えない男ウィリアム・タッカーとアメリカの超売れっ子だがスキャンダルに疲れた女優アナ・スコットの「ちっくしょー」の掛け合いで進展しているといってもいいかも知れない。
 女は男にはさんざん苦労してきた。そのたびにマスコミに叩かれた。彼女のスマイルは仮面のようにゆるがないが内心はすっかり参っている。いつもいつも「ちっくしょー」と気合いを入れて立ち直ってきた。そしてメゲることなく感性のおもむくままに行動していく。
 男はバツイチの経験から軽率な行動はとるまいと相手の気持ちに乗り切れない。けれど間をおくとやっぱり後悔してしまう。昔からすれ違いが恋の物語の元型である。「ちっくしょー」と自身を突き破っていくのはやはり恋情のせいか。この心のシステムが終幕近く爆発。記者会見に潜り込み、愛の告白をマスコミの前でしてしまう。

  (3)ミスター・ビーンよりもスパイク!
 スパイク! 「世界で一番イカレたトンチキ」
 君はなんてナイスなアホ野郎なんだ。タッカーの家にどんなきっかけで居候することになったのか説明はないが、まさしくスパイスを効かせた名脇役だ。
 タロットでは君は愚者的存在だ。このカードは愚か者であるが故にむしろ真実を告げる。タロットのキャラをまんま演じているから愉快だ。奥手になりがちなタッカーをそそのかし、けしかけ、そして恋の成就へと導いてくれるありがたい幸福の切り札。
スパイク! 君は愚者として真理を述べることもあるが、盲信を突き進むこともある危険な存在だ。一度は二人の中を裂く原因を作りもした。従順だとばかりは言えない。悪魔にも成りそうな強烈なキナ臭さも秘めている。
 タッカーの部屋にはシャガールの絵のカレンダーが掛けてある。それを見つけたアナは自分の部屋の同じ絵を、ただし本物をプレゼントする。羊のいる二人の幸せを求めて。羊はもちろんタッカーのお人好しな友人たちのこと。酒を飲み合うだけでなく親身に相談に乗ってくれる。アナはこの人々にも魅力を感じている。ホントにナイスなB級の個性たち!

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●『ダイヤルM』

   監督:アンドリュー・デイビス
   出演:マイケル・ダグラス、グウィネス・パルトロウ
      ビゴ・モーテンセン
   販売元:タイム ワーナー

  (1)真実の愛はどちら?
 金持ちの女が資産を狙われてだまされる、そんな筋書きはよくある。男の数だけ愛が提示され、女はその中からたった一つの宝石を見抜かなければならない。それが女の試練である。どちらが真実なのか。ひょっとするとすべてがニセモノかもしれない。いや、本物のように見せてそのじつニセモノであるように、ニセモノのように見えて本物であるかもしれない。女の頭と心に入り込んでいる私たちも必死になって試練を受けねばならない。
 男の一人スティーブンは妻エミリーの夫である。愛は冷めている。男の会社は破産直前である。もはや女を殺しその資産を奪うことにしか興味はない。女は不倫中である。相手のデビットこそが愛を育て上げられる男と信じている。しかし、彼には結婚詐欺の前科があった。真実の愛などあり得ないという荒廃した砂漠が待ち受けているのか、それともゴミ溜めの中に埋もれた宝石を見いだせるのか、よくある筋書きを破って新世界をどれだけ見せてくれるのか。観客は女の頭と心を超えて真実の愛にきっと到達する。


  (2)語学は身を助ける?
 このごろオンラインによる株式投資が広まる兆しだ。スティーブンも仲間の前で携帯を使って市場の動向を伺う。これでコンピュータを起動し記録されアリバイになる。別の携帯を使って妻を呼び出す。襲撃者に背後を襲わせようという魂胆である。「M」とはローマ数字の1,000や、ミリオンのことだろうか。マネー(相続する資産)そしてアルファベットの第13文字として死刑の意味としたい。
 妻は国連大使のスタッフである。語学に優れ、ロシアの主張に機敏に対応し信任が厚い。使える外国語はひとつだけではない。捜査を担当する刑事の、ちょっと漏らした言語を理解し信頼を得る。襲撃した男のアパートを訪ねたとき、ガラの悪い男から声を掛けられその言語で返すと「今から行く女には手を出すな」と言ってもらえた。ニューヨークは人種のモザイク地帯である。表面こそ英語で覆われているが、水面下ではそれぞれの母国語が身分を越えて熱く連帯している。
 大使の紹介で財務担当者から夫の会社の破綻を知り、疑いを固める。電話が不幸の道具とすれば、語学は幸福へ導く隠し味である。夫が顔の見えないネットを駆使して犯罪をたくらむのとあまりに対照的ではないか。


   (3)やっぱり画家は善人だった?
 女の前に男が二人いる。一人が悪者ならもう一人は善でなければ救われない。夫が悪者なら若い画家が善である。そもそも芸術家に悪者はいない。それが定説というものだ。
 夫から殺害依頼を受けた若い画家。どちらも悪者だったのか。これからはどちらがより悪者なのか、ワルぶりを見比べていかねばならないのだろうか。
 ブルックリン地区にある築100年という古びた倉庫が画家のアトリエであり、住まいである。コラージュを得意の画法とする。エミリーの写真を加工し、絵の具を塗りつけていく。そのときの彼の表情を読みとらねばならないだろう。あるいは夫に渡したマイクロテープのパッケージ、列車のコンパートメントでくつろぐときに立てた彼女の写真。これらから彼女へのこだわりを察することができよう。殺害を依頼され、自分ではなく仲間に襲わせたのも、せめてもの思いやりといえるだろう。・・・・いや、彼の単なる変質的な執着とそれでもひとはいうだろうか。

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●『スリーピー・ホロウ』

  
1999年/アメリカ映画/カラー/106分
  ・監督:ティム・バートン
  ・原作:ワシントン・アーヴィング
  ・出演:ジョニー・デップ《イカボッド・クレーン》
 クリスティーナ・リッチ《カトリーナ・ヴァン    ・タッセル》 ミランダ・リチャードソン《ヴ    ァン・タッセル夫人》リサ・マリー《レディ    ・クレーン(イカボッドの母)》 クリストフ    ァー・ウォーケン《へシアン・ホースマン》


 (1)ホロウ村の首なし事件
 ニューヨーク市の校外ながら、200年前は充分に奥地だったスリーピー・ホロウ=〈のどかな盆地〉村で、村長らの首が切られ消失するという猟奇事件が起こった。
 捜査の科学化を求めて上司や市長と対立していた青年捜査官イカボッドは、腕試しに現地に追いやられた。
 都会からやってきた者には閉鎖的な村人たち。村長なき後、村で一番の実力者タッセル家へ身を寄せながらイカボッドは自慢の科学的捜査を開始した。
 初めは異常者だの陰謀だのと都市型犯罪に当てはめようとしていたが、目の前で判事が「首なし騎士」に斬首されるに及んでアイデンティティが崩れた。
 イカボッドは忘れていた幼少の記憶を次第に取り戻す。魔術を使う母が狂信的な父親に虐殺されたのだ。以来、ゴリゴリの合理主義者になってしまったのだった。
 「首なし騎士」は村を呪う者の魔術によって蘇ったのだ。カトリーナの協力によって事件の真相に分け入っていく。すると彼女自身、タッセル家の遺産相続人であり魔術使いだった。イカボッドは彼女を疑い、傷心して村を去ろうとした。だがふと思い当たって魔術の本を開くと、彼女は愛の護符を描いていたのだと気付く。

(2)ホースマンとヴァン・タッセル夫人
 ホースマン(首なし騎士)というと、ハロウィン
のジャコーランタンを首代わりに人を襲うダークヒーロー。フレディーのようにもっと陰湿にオドロオドロしくてもよかった気がする。ダースベーダ的なカッコよさだ。
 夫人はタッセル一族に復讐し財産を奪おうと、母親譲りの魔術を使って地獄からホースマンを蘇らせる。ホースマンは自分の首を探し求めて、呪いをかけられた者の首を切り持ち去る。それだけではロボット同然でキョンシーなみに間抜けくさい。
 かっこいいホースマンには自分の意志がないといけない。夫人の屈折ある美貌に惚れていたがためということにしよう。アッシー君みたいなものだろう。
 「死人の木」の根元は日本ならトトロの住処。ここでは地獄の出入り口。首を取り戻したホースマン、地獄への道連れに悪の美女にキスをして拉致していく。
二人の因縁は、20年前、ホースマンが独立軍に追われて森の中で姉妹と遭遇した時からのもの。妹が枝を折って兵士たちに居所を教えたが、姉は遠くからホースマンの最期をジッと見つめていた。屈折はあるだろうが、二人は悪の美学を共有する相思相愛の仲なのだ。

(3)イカボッドとカトリーナ
 イカボッドは4回。カトリーナは2回。この映画で失神した回数だ。イカボッドは時には勇敢だが、たいがいはビビリスト。女性から見ればとてもかわいい愛すべき男性だろう。実績がないのにへらず口ばかり叩くのは男性から見れば困った若造かな。彼の振りかざすこけおどしのエセ科学的小道具はゴシック・ホラーの必須アイテム。魔術に憑かれた母親が持っていたソーマトロープ(表裏に鳥かごと鳥を描いて目の錯覚を利用して中に入れるオモチャ)も後生大事にしている。マザコンもありそ。
 現実のホロウ村の景色はいい色だが、くすんでいる。母親を思い出す記憶の色彩は対照的にとても鮮やかで、特に満開の桜が美しい。それはイカボッドの現実逃避を思わせ、事件解決とカトリーナとの関係が彼の通過儀礼になるだろう。
 カトリーナの実母も魔術使いで、一冊の本をまとめている。その母親譲りの魔術で滋養ある薬湯を作りイカボッドを介抱するが、ベッドの下や教会の床に描いたペンタクル(護符)で誤解を招いてしまう。しかしそれは呪いなどではなく、愛する者を守る白魔術だった。「君の中に魔女がいる。恋の魔法をかけたから」。

(4)
「アダムズ・ファミリー」ウェンズデー=クリスティーナ・リッチは安達佑美。だって二人とも背が伸びないんだもの。
「シザーハンズ」エドワード=ジョニー・デップ。おかしくて、せつなくて、とっても甘い青春の恋の物語。あれから10年たったっていうのにジョニーは相変わらず若いなー。

(5) 狼
村から追い払われ
森に住んでいた私たち
母から魔術を教わって
復讐するためにだけ
明日を生きていた
兵士たちに追われ
森に逃げ込んできたあなたは
凶暴で
血に飢えた狼だった
猟犬どもを切り刻むあなたの姿が
頼もしかった
逃げようなんて思わなかった
あなたの殺されるのを
待っていた
あなたの美が完成するのを
見届けたかった
たくさんの血をまき散らし
よろめき
ヘトヘトになって
そして首を切り落とされた
ゆっくりと雪の上にうずくまる
大きな肉のかたまり
その瞬間の美しさ
だんだん蒼ざめていく
あなたの首に
願いをかけた
いつか蘇って
わたしの夢を叶えてちょうだい
もっともっとあなたは殺しを
楽しみたいはずよ
わたしが大人になるまで
土の中で待っていて
きっと復活させてあげるから

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●『スパニッシュ・プリズナー』

   監督:デビッド・マメット
   出演:キャンベル・スコット、スティーブ・マーチン
   レベッカ・ピジョン  他
   発売/販売元:ポニーキャニオン/東京テアトル

 (1) クライン社長
 パソコンのOSソフトWindowsのようなものに例えればいいのではと思うが、世界市場を凌駕するプロセスを開発したジョーは、社長に報酬の確定を求める。しかしなかなか明確な返事がない。カリブの小島エステフェで金持ちの男デルと出会う。不愉快なつきあいで始まったが、少しずつ信頼が深まっていく。デルもジョーを高く評価し、妹に本を届けるよう頼んで仲を取り持とうとする。
 ジョーもうるさくつきまとう新米の秘書スーザンを拒みながら、デルの妹ダシルバ夫人に興味を持つようになっていく。ところが偶然「ダシルバ夫人」が虚偽であることに気付く。開発したプロセスが狙われていたのだ。
 危険を察知したジョーはスーザンに教えられたFBIに救いを求める。捜査官は「スペインの虜(スパニッシュ・プリズナー)」という詐欺の手口だという。彼はおとり捜査に協力することになる。ところがそれも・・・詐欺であった。まんまとプロセスを奪われたジョーははたして取り戻せるのか。
 一度入り込んだら、どうどう巡りして抜け出られない壺を「クラインの壺」という。彼の所属している会社の社長の名もクラインだった・・・。 

 (2)巧妙な企み
 派手な映画に慣れた目で見ると、この映画は地味なB級映画かと思われる。ジョーはプロセスの開発者だというのにパソコンには指一本ふれるシーンがない。モバイルならぬ手帳に思いついた数式を書き込み、プロセスの全体もノートに手書きで記録している。気のきいた言葉やお色気もない。時代をいったいいつ頃に設定しているのか気になったくらい流行を追わない。
 奇抜さのない映画。唯一、目に付いたのが日本人である。これも道具の一つなのだが、日本人を信用できないものとして話を進め、あるいは街に溢れる軽薄な旅行客として描き続ける。ところが最後に、狙われたジョーを救ったのが日系人だった。アクションの似合わない日系人が銃を撃つ。日本人が重要な役割を演じること、それが意外性のネタに使われているのだ。
日本人の他、ナイフ、空港の透視ディスプレイ、表紙の破れた本などが繰り返しズームアップされ「ハイハイわかりました」状態にさせられる。これら地味、繰り返しにはどのようなねらいがあるのか。ジョーがキレる男のようでじつはボケているという味わいを、観客に背後から植え付けようという巧妙な企みがあるのである。

 (3) お人好し
 ジョーはこれほどいわれても何一つ気付かないのか、と思うようなお人好し(ボケ)である。新米秘書のスーザンには「礼儀正しい」といわれ、金持ち男のデルには「父親には人を見たら疑えといわれた」など示唆に富む言葉を言われているが、いっこう彼らを疑うことがない。ジョーはエンジニアであるからそういう面にうといのか。
 社長はナーバス状態である。巨額の利益を生む画期的な商品の販売を目前にして、ジョーが著作権をゴリおしするのではと疑心暗鬼なのだ。これまた人を見る目がないといえる。ジョーは少々不満でも会社とコトを起こすほどの野心家ではないのだ。一方はボケ、一方は神経質。
 地味で知的なテーマでありながら、一皮めくればマンガである。喜劇俳優として時代を築いてきたスティーブ・マーチンが金持ち男の役でシリアスにやっているのは深い深いギャグなのかもしれない。これが観賞後ジワジワとしみ通ってくる魅力の原因だと思う。
 多分これは監督の性格なのだろう。何度も似たようなせりふを言わせ、道具を繰り返し描写する。消化不良の展開よりもカラクリがずっとよく分かって、サスペンス映画の教科書といえるかもしれない。

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●『54 フィフティー★フォー』

  監督・脚本:マーク・クリストファー  
  撮影:アレクサンダー・グルツィンスキ   
  出演:ライアン・フィリップ、ネーヴ・キャンベル
サルマ・ハエック、マイク・マイヤーズ  他
  発売/販売元:アスミック・エース

 (2) ディスコという恋の場所
 1979年。ぼくは東京を出て地方の小都市で働き始めたばかりだった。ディスコには職場の同僚たちとワクワクしながら出かけた。ジョン・トラボルタのあの有名な映画もよそ事ではなかった。
 週末、米軍基地の街に遊びに行き、店内の明るい喫茶店に入る。お客はぼくしかいなかった。カウンター越しの女の子も明るかった。ぼくの住んでいる街のディスコのウワサをした。この街の方がずっといいらしい。一緒に行こうと誘ってくれた・・・。
 鹿鳴館の遠い時代から人々は夢にひたろうと集い快楽に溺れ、そして挫折と苦悩を味わう、それがディスコ。
 いなか町のローカル紙にもスタジオ54が紹介された。54のようなディスコをいなかにも作るために視察に出発した記事だった。
 人はつねに自分を補完する相手を求めてディスコという市場に物色しに出かける。出会い、そして出会いを深めるためにいりびたる。日常に倦んだ少年が、自分にふさわしい場所と相手を求めたといってなんの問題があるだろう。たとえ家を棄てたとしても。

    
 (1) ジェーンの回想
 少年っぽさの残る青年は川向こうにある大都会のまぶしい灯をいつも眺めていた。それは世界一の都会であり、無限のチャンスが待っているように思われた。
 自分の立っている街はくすんでいるし、遊びに行く店は冴えないし、家族は平凡の見本のようで、着ているシャツもダサダサ。ナンパした女の子に軽蔑され自分の境遇がどのようなものか気付かされたのだ。このままでいいわけがない。友人たちとニューヨークにあるハイクラスのディスコ「スタジオ54」への突入をはかる。
 オーナーのスティーヴ・ルベルは、招待者以外は入り口で押し合いへし合いしている者の中から適格者を選ぶ。東京にもそんな店が一、二店はあったように思う。
 青年は選ばれた。生涯で初めてのことだ。名はシェーン。さらにそこで働けるようになる。同僚たちはルベルがそうであったように、世界に羽ばたく夢を持っている。当面の目標は花形のバーテンダーに、女は歌手デビューすること。いや、スターへの夢を持って集まるのは駆け出しの芸能人も同じだ。同じ街出身であるジュリーもさらなるステージ・アップを目指していた。シェーンとジュリー、どちらが早くスターになるか。

 (3) ゲイ・マジック
 ドラッグ、セックス、札束が満ち満ちた危ないディスコを舞台にしているが、不思議に退廃的な匂いがしない。むしろさわやかな青春映画だ。
 平凡な家庭の子が大都会のディスコに潜り込む。そこにはすでに同年代の青年たちが夢を目指してチャンスをうかがっていた。
 世界中から大金持ちや有名アーチストたちが訪れる。そうかと思えばシェーンのような勤労者たちやドティという80歳の老婆までがのびのびと遊んでいる。
 何か変わった道具があるわけでなく、人間が寄せ集まっただけなのに、どこから魅力が湧いてくるのだろう。オーナー・ルベルのマジックというしかない。客を選ぶポイントはどこにあるのか。品性に「遊び」がないとダメなのだ。入場できなかった友達や出世できないグレッグはいいヤツだが、全身に「生活」が染みついている。
 思いっきりド派手なパフォーマンスでもしなければ凡人には入場は難しい。それに気づけないのがまた凡人というものか。ルベルはどうだろうか。ハゲ、デブの容姿はまず置くとして、彼は美少年好きなゲイである。これこそ究極の「遊び」であり、マジックの源ではないだろうか。

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●『サイダーハウス・ルールー』

1999年アメリカ

     監督:ラッセ・ハルストレム
   原作/脚本:ジョン・アーヴィング
     出演
   ホーマー・ウェルズ:トビー・マグワイヤ
    ウィルバ・ラーチ:マイケル・ケビン
 キャンディ・ケンドール:シャーリーズ・セロン ウォリー・ケンジントン:ポール・ラッド
    ミスター・ローズ:デルロイ・リンド
     ローズ・ローズ:エリカ・バドゥ


(1)甘くってちょっと酸っぱいリンゴな物語
 セント・クラウズの山のてっぺんに、世間に見せつけるように建っている孤児院。住んでいる者たちは汚れなき生活を送っていた。ただ、医師ラーチは分娩の他に堕胎という違法行為を行っていた。孤児の一人ホーマーはラーチに自分の使命をやがて引き継ぐ者と見込まれ、産科の技術を伝授されていた。ところが期待に反して、ある日、堕胎処置をしにきたウォリーとキャンディの車に便乗してホーマーは巣立ってしまった。行き着いたのはウォリーの実家、リンゴ農園だった。
 世間知らずながら持ち前の賢さで仕事を覚え、ミスター・ローズ率いるリンゴ摘みの季節労働者たちと共同生活を始めた。収穫が終えて一団が去っても一人宿舎で越冬するホーマー。寒さをしのいだのはなによりもキャンディとの不倫関係だった。再び収穫期に一団が訪れた。ローズ親子がとんでもない事実を引きずって。
 宿舎にはルールと称する紙切れが貼ってあった。ホーマーが読んであげるとみんなは拍子抜けしてしまった。
あまりに現実にそぐわない、人を馬鹿にした内容だったからだ。世間を見聞した15ヶ月目、ホーマーはラーチの遺志を受け継ぐことにした。 


(2)法を定めしニュー・イングランドの王
 アウト・ドア用のウェア類を製造販売しているLLビーン社はメイン州に拠点をおく。メインは豊かな自然、たとえばリンゴ園やロブスター養殖の海の美しい色彩や広さが自慢なのだが、映画は決してそれに酔わせてくれない。自然を小さく切りとって人間を大きく描く。主役はあくまで人間なのだと。この世の王は人間なのだと。そして人間たちの表情が一人一人豊かに描かれる。
 孤児院で堕胎という違法行為を密かにしているのになんだかあっさりした雰囲気が漂っている。それだけ当然の行為であると医師たちは確信しているようだ。
 堕胎行為への賛否の論議は深く重く、たぶん永遠に続いていくだろう。そんな深刻な問題にズッポリはまり込んでいるにもかかわらず、問題に直面している医師ラーチの苦悩している場面を付け加えなかったのはなぜだろう。彼はホーマーをニセ医者に仕立てることにもぜんぜん躊躇しないところがある。彼は真実のルールに踏み込んでいたからだ。ルールは誰のためにあるのか?ステージに上がっている人間のためにあるのだ、と。ここでは神以前に、自然以前に、現在人生のステージで立ち働く人間たちこそが最優先されるのだ。


(3)熟す時を待って
 孤児院をいいなあ、なんて思う人はあまりいないだろう。でも、映画の孤児院を見てそう思う人はけっこういるのではないだろうか。少なくともぼくはそう思った。昨今、ひどい家庭が増えているからだ。児童虐待とか、荒れているとか。そんなことでキャンプとか、修学旅行とか、中には苦手な子もいるけれど、集団生活を楽しみにする子が増えているはずだ。でも、当の孤児たちは訪問者が来るたびに必死に「いい顔」して早く貰われたがる。世間に飛び出したいからだ。
 ホーマーも世間を見てみたかった。ラーチ医師ら去られる側には痛みがあるが、また、そんな気概を持たないような子では情けないという思いで見送ったと思う。
 農園に落ち着いたホーマーの口癖は「様子を見る」。日和見的になって、宿舎を離れない。常に適切な機会を待つ生き方なのだ。宿舎で生活して山海の恵みを味わい、家族を垣間見、大胆な恋をし、自分の医術の役立つことを確かめた。ラーチ医師死亡の知らせは、熟した果実が落下するようなもの。サイダー(リンゴジュース)の甘酸っぱい香りのしみ込んだ宿舎を出て、孤児院に戻ることになった、院長として。なんだか徳川家康みたいだな。


(4)ケニス岬へ
天使は消毒薬の匂う天国を抜け出す
(まっすぐな一本の道)
若い両親に挟まれて
(青く光る道)
新しい世界を味わいに
(リンゴ農園へ続く道)
雑多な匂いを吸い込みに
(ロブスターの海へ至る道)
ちょいと出かけてくるよ
背中の翼を試したいから
帰りはいつかは分からない
飽きたら戻るよ
それはいつかは分からない
ボロボロになるのか
バリッとするのか
加速をつけて
岬をまっしぐらに突き抜ける

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●『グラディエーター』

   2000年  
   監督:リドリー・スコット
   出演:マキシマス:ラッセル・クロウ
      コモドゥス:ホアキン・フェニックス
        ルシラ:コニー・ニールセン
      プロキシモ:オリバー・リード
マルクス・アウレリウス:リチャード・ハリス
   グラッカス:デレク・ジャコピ
        ジュパ:ジャイモン・ハンスゥ


(1)ローマ帝国と農民武将の運命
ドナウ川を越えて侵入するゲルマン民族の脅威を排除し平和を勝ち取るべくローマ帝国北方軍は初冬の森で戦った。5000人の軍勢を率いた将軍マキシマス。彼の戦いを最後まで見守った皇帝アウレリアスは意志を固めた。並み居る将軍の中でもひときわ将兵の信頼の厚いマキシマスをわが世継ぎとし、皇帝派と議会派の対立で腐敗しきったローマを元来の共和制に正すことを願った。だが、マキシマスは謙虚な農民として妻子の待つ故郷に帰ることをひたすら望むだけだった。
 アウレリアスには息子がいた。野心家のコモドゥスだが、世継ぎにされなかったことを恨み、父を暗殺。マキシマスおよび故郷で待つ彼の妻子をも処刑させた。
 皇帝の座を奪ったコモドゥスは闘技場を建設し政治は放り出し、剣奴(グラディエーター)による殺し合いに、日々、熱を上げた。そこへ地方で噂の高い「スペイン人」剣奴が現れた。殺したはずのマキシマスではないか。剣奴たちを率い巧みに勝ち続け、群集を味方につけた彼を皇帝といえど簡単に抹殺することはできない。マキシマスにも、妻子を殺された復讐と前皇帝の願いをかなえるチャンスが小指の先ほどだったが見えてきた。

(2)これって仁侠映画ですよね
 マキシマスのあの顔つき。全然美男じゃない。長年の風雪に耐えてきた苦労人の顔だ。昔でいえば農民顔。今でいえばサラリーマン顔。身の程をわきまえ任務に邁進する。部下も信任するタイプだ。家族を故郷に置いて単身2年264日の赴任。現代でもそろそろ異動の頃合である。お父さんはいったい誰のために日夜働いているのか!継いでほしいといわれたローマ帝国の権力なんてものより、やっぱり妻子と田舎だよ。そんなささやかな夢と恩人の前社長を踏みにじったボンボン殿下のムチャな野心に決着をつけたとき、おれはたまらず泣いた。
 火矢やカタパルトで飛ばす火壷が、当時ああやっていたのかと具体的。大軍勢のコンビネーションよい戦闘シーン。度肝を抜く巨大な闘技場。それよりなにより、どんなに規模壮大な映画であっても、これまでのは結局甘ったるいメロ・ドラマだったんだって気にさせるほど、上下や仲間の結束を中心にこの映画は「男」を描いていた。だから?傍らで見ていたわが愚妻は退屈してあくびを連発、そのあげく眠りこけてしまった。馬鹿者め、男の崇高な精神性に魂がうち震えないか!
 ところでこれってやっぱり仁侠映画ですよね。

(3)調子いいゾ!子連れのルシア
 冒頭シーンは眠ってしまいました。だって退屈です。どーして男たちって戦争が好きなの?
マキシマスは家族を大切にしているような口ぶりだけど、空々しかった。男の勝手よ。3年近くも家を空けて戦争でしょ。死んでしまってるかもしれない人を待つなんてどんな気分か分かります?うちの人も山で遭難騒ぎを起こしたんですよ、ホントにもう。彼は反省して今ではビデオ三昧の生活してますけどね。
 お父さんは不倫の誘いも振り切って働いているのは何のためだ?っていうけれど、それは自分のためでしょ?男のロマンだとかいって。それを支えてあげてるのは私です。たまには私のためにも働いてね。ラッセル・クロウはブサイクだけれどチャーミング。画面に初めて現れたとき、オヤッと思ったくらい。典型的な養子ヅラね。
 マキシマスに折りを見ては迫ってた子連れのルシアって女が一番調子いいんじゃないかしら。あれが女の生きる道、なんて男に思われたらちょっと悲しいね。本当の気持ちを言えないんだから。バカな弟の後ろに立って、元老院の議員たちをとりなしているのは賢い姉って感じだけれど。自分と子どもがよければなんでもいいのよ。

(4)姉弟
記憶の未明
おもちゃと実在の区別も定かでない
そんな遠い世界から
寂しさをしっかり抱えて生きてきた
弟よ
父はずっと家を出て
配達される外国からの贈り物は
不思議な匂いや味がしたけれど
真夏の飲料水のように
強く求めていたのは
父のぬくもりだった
閉ざされた家族空間で
私たちはすべてふたりで演じあった
ふだんは親友だったけれど
あなたがダメになったとき
私が父になって叱った
そして時がたち恋人になり
母になった
父に愛されなかった実の息子の
遥かな国で父に息子のように愛された男への
歯がゆいジェラシー
涙をこぼして夢から覚めれば
破局は私にだけ見えて
あなたはどこまでも突き進む
子どもよりもかわいいわたしの弟よ
与えられた世界はあなたのおもちゃ
血なまぐさい風が吹くたびに
私の子どもの背も伸びる

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●『エントラップメント』

  監督:ジョン・アミエル
  出演:ショーン・コネリー、
     キャサリン・ゼタ=ジョーンズ  他
  発売/販売元:日本ヘラルド映画、
         ポニーキャニオン

 (1) 罠
「罠(エントラップメント)ってものはサツが泥棒に仕掛けるものだ」
 稀代の泥棒マック(ショーン・コネリー)が新進気鋭の女泥棒ジン(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)に吐き付ける。
 凄腕の大泥棒に罠を仕掛けるような敏腕刑事はこの映画のどこに登場するだろうか。登場なんかしてるもんか。
 罠を仕掛けられたのは、日本でいえば藤原紀香のようなジンの色香に惑わされて少々甘くなったウェイバリー保険会社の調査員ヘクターのほうである。
 本当の罠は最後のお楽しみ。全編、マックとジンの駆け引きの掛け合い。勝ったのはどっちかって? 親子より歳の離れた二人がめでたく結ばれたんだ。キューピットの勝ちってことかな。
超高層ビルをダイビングして窓から進入する。ダンス・パフォーマンスのような動作で綾なす赤外線をくぐり抜ける。コンピュータが停止するほんの20秒の間に、まるで知能検査のように素早くラインを差し替える。アクションは全てジンにお任せ。だが、存在感は断然優勢なマックなのです。

 (2)小枝のない木には小鳥は止まらない
 ときどき役者さんたちの演技を見て、どんな幼少期や青春を送ってきたのだろうと思うときがある。
 ショーン・コネリーはボディ・ビルに全精力を傾け、イギリス国内のコンテストなどに出場していた。ボディ・ビルダーが映画で成功したのは、アーノルド・シュワルツェネッガーが最初ではなかったのだ。
 千葉真一もだが、アクションにとどまらずやがて深みのある演技に踏み込んでいき、賞さえ取れるようになる。
 1967年上映の「007は二度死ぬ」は東京ロケが敢行されたが、丹波哲朗と並んで美女に背中を洗ってもらう銭湯シーンがある。
「小枝のない木には小鳥は止まらないよ」
 子どもの時聞いたボンドの胸毛自慢のセリフは永遠に忘れない。筋トレやったり、胸に種々のクリームを塗ったりしたものだった。ボディ・ビルコンテストでは筋肉の陰影をよく出すために全身の毛を剃るものだが。
 あれからいくつも年を重ねたジェームズ・ボンド。女性は相変わらず魅了されるという役柄。セックスシンボルとしてマリリン・モンローと対をなすキャラクターなのか。

(3)体育会系少女
「今まで意のままにならず、誘惑できなかった男は?」
「ううん」
 夜は長いし全然眠くないからと、当然のように挑発するジンに対して、呆れたように泥棒の心がまえを諭し始めるマック。
 エキゾチックな微笑みを持つジン(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)はゴージャスさと可憐な少女が同居。「マスクオブゾロ」に出演していたところを見るとラテン系か。ラテン系は落ちつきすぎてくすんだイギリスの風土には鮮やかなバラの花。
 バラの花はピアノは習わなかったが、器械体操は習ってきた。この映画はその一点で企画されたとおぼしい。
 エンターテインメントはスリルと反転が柱だ。意表をつく演技はコネリーに任せ、スリルはゼタ・ジョーンズが活躍している。その舞台は高さだ。天井の梁の上で平均台演技をしているのを見ると泥棒ジンではなく、少女ゼタ・ジョーンズが見えてくる。ピアノ少女ではなく体操少女。YMCAの体育館に送迎した両親の顔さえも浮かんでくる。体育会系のノリはまさしく藤原紀香と同じ。体操少女が芸能界に足を踏み入れ、じきに頂点に立つ。

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●『エンド・オブ・デイズ』

  ・監督/撮影監督:ピーター・ハイアムズ
  ・出演:アーノルド・シュワルツェネッガー
      ガブリエル・バーン 他

(1)預言よ、成就することなかれ
 1979年、ヴァチカン市国の夜空。月は古来に預言されたとおり神の目の形になった。その日、刻印を付けて誕生した娘が千年紀の終末にサタンと結ばれると、この世は終わりサタンの支配が始まる、という。
 1999年12月、ボディ・ガードのジェリコは雇い主を銃撃した男を捕らえる。舌を切っていた。ヴァチカンで預言を確認し、法王に進言した僧侶だった。すると雇い主はいったい何者なのだ。
 妻子をテロリストたちに殺され、以来、神を憎み世をはかなんで死のうとまでしていたジェリコ。20歳を迎えた娘をヴァチカンの刺客やサタンの手から守ろうと死闘が開始される。
娘と神の創造された世界の存命はたった一人の男に委ねられたが、神を見放していた男はサタンに気に入られ、誘惑の甘い言葉をかけられる。
 男は誘惑を振りきり、サタンを撃破できるのか。そもそも神はどのように力をお示しになられるのか。
 千年紀の終わりと始まりの瞬間をお祭り騒ぎで過ごそうと興奮の最高潮に達した群衆には最後まで知られることなく、男の壮絶な戦いは繰り広げられる。

(2)自己変革をする男
 誰一人頼れる者のいない地方都市で社会人になったぼくは、カビ臭い地下のボディ・ビルジムに通いだした。 世界最高峰のコンテスト「ミスターオリンピア」でオーストリアン・オークと呼ばれ、連続優勝したアーノルド・シュワルツェネッガー。彼のポスターを部屋に貼りはしたが、はるか遠い光だった。
 ウェイトで鍛えられたビルダーの筋肉は純粋に美的追究の結果だが、実際に躍動するところを見てみたいという欲求もある。シュワルツェネッガー主演の映画が世界中で爆発的に受け入れられたのがぼくの孤独を慰める。
 最愛の妻子をテロリストたちに惨殺され苦悶するジェリコの役は新境地を開拓する冒険だ。過去のアクション・スターたちみんながジャンプしてきたものでもある。 ファンはとまどい惨憺たる評点を付けるだろうが、ぼくは目をつぶっておこう。
ボディ・ビルで食えそうだと思った男が20代になってオーストリアからアメリカに移民し、ひたすら自己を変革していった彼のことだ。やがて恋物語で観客の目に涙を潤ませたらおもしろい。将来、布石となったものとしてこの映画が再評価されるときが来るかもしれない。

(3) 神を救った男
 奇蹟といわれるごくわずかの他に神の力を見たものはいない。常に沈黙し、信じるものとともに悩み苦しみに耐えるのが神のあり方だから。しかし、サタンの暗躍にいつまでも黙っておられるはずがない。
 神とサタンの戦いはいくらCGが発達しても描くことは出来ない。人間による代理戦争しかないだろう。サタンはいちはやくエグゼクティブな男に乗り移って先手先手で破壊や悪徳の限りを尽くすが、神の方はまだるっこい。ニュートラルな状態にいるジェリコが悟るのを待つだけだ。傭兵に対し気まぐれなボランティアの支援を期待するようなもの。サタンの誘惑にうち勝ちジェリコが神の窮地を救うという構図さえ浮かぶ。
 強制などしなくても人を動かすことが出来ることこそ神の力なのだろう。罪深い人間たちの身代わりに十字架にかけられたイエスのように、ジェリコは剣に我が身を突き刺し、運命を握る娘を逃そうとする。天国から妻子が迎えに来た。殉死したものに神は報いたのだ。
 それにしてもサタンがずいぶん魅力的ではないか。神の定めたタブーをうち破り欲望を思うままに果たすこと、それこそが人間の夢であり生きる力なのだ。

(4)信仰
妻子が殺された・・・
テロリストたちを憎んだ
神を憎んだ
自分を憎んだ 
酒と銃だけが頼りだった
眠れぬ夜は死ぬことだけを考えた
いまもって分からないことがある
なぜ命を賭けて小娘を助けたのか
心の片隅にでも
正義がこびりついていたのか
愛にしがみついていたからか
サタンにむざむざ差し出すのが惜しかったからさ
ヴァチカンのクソ坊主どももウザッタイが
サタンの誘惑も甘すぎる
地獄を見てきた俺なら
うまい話などかえって怪しむものだ
俺を叩きのめすヤツだけが信じられる
神こそがその大ワル

(5)
 ミア・ファロー主演の「ローズマリーの赤ちゃん」を思い出しました。
 神が処女マリアを、それも婚約者のヨセフがいるというのに犯してイエスを宿させた、このパロディーはキリスト教が元気なうちは繰り返されるようです。
 上田秋成の「雨月物語」も思い出しました。「もう戦いは済んだ」と偽って隠れていた娘をおびき出した手口は「もう夜が明けた。魔物は去ったよ」といって男を家からおびき出したのと同じです。

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●『ウェイクアップ!ネッド』

  監督・脚本:カーク・ジョーンズ
  出演:イアン・バネン、デヴィッド・ケリー他
  発売/販売元:エスピーオー

 (1)おいしいパイにありついた
「アップルパイ持ってきてくれよ」
「自分で取りに来ればいいでしょ」
「おい、調子いいぞ。宝くじの数字が合ってきてるぞ!気になるならテレビ見に来いよ。ああ、ついでにパイを持ってきてくれ・・・イッヤホー。やったぞー!」
「あなた、ホントに当たったの?」
「いいや。でもパイにありつけたよ」
 すっかり倦怠ムードの老夫婦。二人が思わず燃えたのが宝くじのインチキ当選騒ぎだった。でも、パイは間違いなくいただけたのだ。
 えっ? 何が何だか分からない? そんなことないよ。この映画、この小話が発展しただけのものなのだ。
 肝心なことは、どうやって人をだましたかということよりも、老人の多い小さな村の住民(ひとりの例外を除いて)が平和を破っていかに燃えたか、いかに心を一つにしたか、ということなのだ。そしてさらにさらに重大な命題は、ユーモアを解さない人間はとことん排除される、ということである。虚構の悪者のことではない。あの老女は日本人のことなのだ。

 (2)啓示は「嘘をつけ」?
「ウェイキング! ネッド」これが映画の原題である。「生きてるゾ」ということだろうか。日本語タイトル「ウェイクアップ! ネッド」だと「目を覚ませ」ということになってストーリーから外れてしまう。何しろネッドはずっと起きてることになっているからだ。
 ジャッキーは夢で啓示を受けた。死んだネッドに宝くじの賞金を譲ってもらえると。それからは賞金をもらえることなら何でも善になった。葬式で死者を別人の名で呼んでみたり、ネッドになりすましたマイケル、村中の住民、若い神父さえもウキウキとなって嘘をつく。
 嘘でもユーモアなら大きければ大きいほど愉快である。むしろ村人の福祉に役立つというのなら、いや、ビール代になるというのならそれは善行である。
村全体を巻き込んだ悪だくみに、シャイロックのようなガメツイ老女リジーだけが加わろうとしない。彼女の打算だと密告したほうがより儲かるらしい。脚が悪かったはずのリジーがスタスタ歩いて電話ボックスに入った。危ない! そこへ出張から帰ってきた老神父の車が衝突。気持ちのいいほど見事な放物線を描いて電話ボックスは崖下へ飛んでいった。これは神の御心か?

 (3)モーリス
 アイルランドの自然は案外荒かったんだなあ。アイルランドなまりというのだろうか、独特の英語が耳を際だたせる。タリーモア村の住民たちの、神を恐れないしたたかな感受性は風土に由来するのだろうか、それとも歴史に由来するのだろうか。
 村一番の美女マギーの子は父親が知られていない。じつは意外な人物との子どもである。名はモーリス。彼も教会には行くが「会ったこともないのにただ働きをするなんてできない」と神など信じちゃいない。
 映画の底辺には神への否定が色濃く滲んでいる。この毒こそが映画を成功させている因子なのだ。
 老人どもの影で豚飼いのフィンと子連れのマギーの恋の物語は展開している。豚の匂いが嫌われて二人はなかなか結ばれない。色男パットにあわや横取りされそうになる。純愛の物語は老人たちの悪だくみに清風を吹き込み映画のバランスを保っている。
 モーリスの父親は風聞とは違ってなんとネッドだったのだ。モーリスは賞金の正当な唯一の相続人ということになる。しかし、マギーはあっさり断る。・・・そういえば、賞金っていくらだったっけ?

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●『イン&アウト』

   監督:フランク・オズ
   出演:ケビン・クライン、ジョーン・キューザック 
      マット・ディロン
   発売/販売元:ブエナ・ビスタ・ジャパン/クロックワークス

 (1) ブラケット先生はゲイだ
 場面が細切れにされた予告を見ておバカな映画と決め込んでいた。映画に引きつけたいからといって、見る者をだますような紹介はしたくないものだ。だましたくはないが、どんでん返しをいってしまっては見る者をシラケさせてしまう。善意あるだましなら許される。何十倍も大きな感動が得られるのなら喜んでだまされよう。涙がこぼれることは確かめた。
 誠実で信頼の厚い高校教師ハワード・ブラケットは、ある晩、教え子で俳優のキャメロンにゲイ呼ばわりされる。それもアカデミー賞授賞式の舞台で。一躍全米的に有名なゲイになってしまい、田舎な地元では大騒ぎ(イン&アウト)。しかも彼は三日後に結婚式を控えていた。ラブラブなふたり、結婚式でダンスしたい母親、地元の人々ともどもゲイの容疑を晴らすべくその日に期待する。
 20年ほど前に戻ったような数々の趣向も楽しい。

 (2)素直になれること、それが感動なのだ
 婚約者のエミリーや自分を取り巻く人々に彼はうそをついた。ゲイではないと。自分にさえもうそをついたのかもしれない。キャメロンから秘密をバラされたときは「なんてことをいうんだ」という顔をした。一方的に事件に巻き込まれた被害者という生活が始まった。しかし、妙な場面が続出する。おカマくさいしぐさ、ゲイの好む女優たちを好み、やたらマッチョマン志向なのも不自然だ。
 キャメロンは恩師を陥れたのかと思った。じつは励ましたのだ、と最後まで見て合点した。ブラケットは結婚の宣誓でゲイの告白をした。同性であるレポーターにキスをされて目覚めたのだろうか。少なくとも勇気は授かった。ゲイであれば人格下劣な人物とされ、職場を追われ二度とハレの舞台には立てない。それがアメリカの保守的な社会である。映画の流れは一つしかないと思った。町を去ること。彼もその覚悟だった。キャメロンが流れを変えた。生徒たちがそれに応えた。家族、消防団の仲間たち、次々と広がり大合唱となった共感の言葉。ブラケットの誠実な人柄がゲイへの拒否反応をうち破ったのだ。ここで涙を流す者は自分に自信を持つ。素直になれること、それが感動なのだ。

 (3)映画には隠されたメッセージもある
 「アダムズファミリー2」ではパワフルなボディで悪女を演じたジョーン・キューザック。このときもビレッジピープルの「マッチョマン」が流れていた。今回の映画ではスリムでキュートな教師エミリーになっている。大胆な変身ぶりも映画の楽しみの一つである。
 この映画を見て思い出した映画は、ゲイを告白した「真夜中のパーティー」、ディスコが流行った「サタディナイト・フィーバー」。
 映画のセリフで出てきたものとしてはベッド・ミドラー主演、女友達との同棲生活の「フォーエバー・フレンズ」バーブラ・ストライサンド主演、女が男装して寄宿舎生活を始める「愛しのイエントル」「ファニー・レディー」「トワイライト・ゾーン」。パロディが「七月に生まれて」。さて、ドキュメントの「ポーランドの炭鉱」はどう意味だろう。「イン&アウト」この映画の主体がポーランド系ということを意味している、と推断する。
 ゲイたちへのメッセージもたくさん隠されているかもしれない。
 映画には映画人間だけに伝わるメッセージが隠されている。映画になじめばなじむほどご褒美がもらえる。

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●『アメリカン・ビューティー』

     2000年
     監督:サム・メンデス
   脚本:アラン・ポール
     出演
   レスター・バーナム(私):ケビン・スペイシー
  キャロリン・バーナム(妻):アネット・ベニング
   ジェーン・バーナム(娘):ソーラ・バーチ
  アンジェラ(娘の友人):ミーナ・スパーリ
リッキー・フィッツ(隣の息子):ウェス・ベントレー
    フィッツ大佐(隣の主):クリス・クーパー
バディ・ケイン(妻の同業者):ピーター・ギャラガー

(1)中年男再生のシナリオ
 縹渺とした天上に肉体のない生命体として漂う私。私レスターは何者かに殺され、しかし憎悪などなく、今日までの人生に感謝の気持ちを抱いている。
 人生半ばにして命を絶たれて恨みを持たないなど信じてもらえないかもしれない。きっと分かる時がくるよ、誰も恨まない、なにも悔いない至福の時を得れば。
 私は殺される前から死んだも同然だった。夫婦にはいつからか愛もセックスもなくなり、会社はリストラされ、娘は反抗的で隣家のサイコ坊やといい仲、事業の成功を夢見る妻は同業者と不倫、私も娘の女友達にイカレてしまった。家族を一つに結びつける理由など何一つなかった。私は人生を一回終えてしまったのだと思う。
 私を再び燃え上がらせたのは娘の友人アンジェラを見たときからだった。恋をしたのだ。太い腕が好き、と聞いて日夜トレーニングに励みだした。あなたは知っているか、体を動かすのはセックスのように気持ちのいいことを。自信も肉体とともにビルド・アップすると、マッチョ・マンにつきもののゲイをはねのけ、ロリコンも克服し、再びよき家庭の主に回帰しそうなところまでたどり着いたのだった、それが・・・。

 (2)どっち好き?
 金髪美少女アンジェラと地味な服に巨乳を隠したジェーン、あなたはどっちが好き?どっちがビューティー?
 自分の美しさを十分知って気の多いアンジェラ。彼女に惚れたのが人生にくたびれた中年レスター。自分が巨乳であることを認めようとせず、さらに豊胸手術をしようという娘ジェーンは野暮ったい衣装を身にまとう。隣家のリッキーは彼女にサイコな執着を見せる。
 アンジェラは満開の真っ赤なバラの花びら。ジェーンは鬱積した青春を今にも爆発させそう。赤と黒。二人は裏表一体のユニットなのだ。
 アメリカ人の「普通」の人生を過ごしてきたレスター。彼の美意識は通俗的すなわちアメリカン・ビューティー路線だろうし、死体や、風に翻弄されるビニール袋に美を感じるリッキーはジェーンにパワーを感じるようだ。
 美って何だろう。派手で男経験の豊かそうなアンジェラは結局ウブな子だった。彼女を軽蔑していたリッキーはそれを見抜いていたのだろうか。ジェーンは男なんかパパを見ていてウンザリって感じだけれど、いざとなるとどこまでも着いていくタイプ。どっちも好き!どっちもビューティー!ロリコンにお奨めっ!?

 (3)入れ替わる生と死
 妻キャロリンはケインを同業の成功者として憧れ、たちまち引きつけられる。そんな出会いはアメリカン・バブルも弾けて、いまや哀れなだけ。隣家のフィッツ海兵隊大佐がマッチョを目指すレスターをゲイに間違うなんていうのもよく使われるギャグだ。
 さて、中年レスターとサイコ坊やのリッキーはどんな関係かな。彼らもユニットのように見えてしまう。
 社畜から解放されて俄然、反抗精神に目覚めたレスターは70年代の青春を復活させる。「ドラッグ・セックス・ロック」といわれた時代。売人リッキーからマリファナを手に入れ、逆に紙の巻き方を指南し、美少女とのセックスを夢見、反体制のロックをわめく。おまけに、ハイスクール時代にしていたというハンバーガー屋で働き出す。必死に生き返ろうとして、死に際にアダ花を咲かせるかのようだ。
 そんな彼にはリッキーはどうみてもお迎えにきた死に神だ。でもリッキーには、黒々しいが生命力があふれている。ジェーンと駆け落ちしても充分食っていける現実家だ。したたかにやっていけて未来もありそう。生きる者と死にゆく者は立場をめまぐるしく入れ替える・・。

(4)
 いやー、まいったなー。レスターは今のぼくそのもの。人間なら年齢が来ると誰もが覚える倦怠感というものだろうか?これまで知らなかった感覚に襲われる。リストラ対象のねらい所にされるところでもあろう。
 60歳定年なんて誰が言い出したんだよ。ガマンして社畜をやってられるのも50歳が限度だよ。
 きょう「もうやってられない、刺激を求めて転職したい」と家族に相談した。
「お父さんはつぶしがきかないからこのままやってなさい」だって。
 再び恋愛とか意欲に燃えたペーペーの頃とか、ドキドキする冒険に飢える年齢なんだな。
 レスターの口ずさんだザ・フーはピーター・フォンダ主演の「イージーライダー」でも流れていたと思う。
ほんとにほんとに「イチゴ白書をもう一度」だよ。
 ほんとにほんとに映画「イチゴ白書」だよ。

(5)透明な力
フワフワと漂い
風に巻き上げられ
落下しては地を滑り
うち捨てられたビニール袋は
気ままに
ステップも軽く
美しい
白いドレスの舞いは
夜を明かしても
止まらない
透明なみんなの力が
彼女を支えている
その優しさに
胸が張り裂けそう
砂漠にポツンと置き去りにされ
オアシスを目指して
今日まで必死に歩いてきた
それなのに
みんながずっと見守っていたって
気づいたんだ

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●『アナライズ・ミー』

  監督:ハロルド・ライミス
  出演:ロバート・デ・ニーロ、ビリー・クリスタル他
  発売/販売元:CIC/ビクター

 (1)カウンセリングしてくれよ
 人を殺すことなどなんでもない恐ろしいマフィアの大ボス、ポール・ヴィッティが、突然弱気になってしまった。息苦しくなる、人を殴れない、ナニも立たない。世の中が平和になってこんないいことはないと思うのだが、当人としては大変なこと。敵に察知されたらナメられて組織も危なくなってしまう。
 相棒に紹介された精神分析医ベン・ソボルを訪れ治療を求める。 
 ベンの何気ない言葉に、気の早い(短い)ポールはすぐに自信を取り戻し、大感謝。でも、すぐに自信を失い、そうなると相手の事情などお構いなしに呼びつける。
 こうしてマフィアの世界にどんどん引き込まれ、ベンの前途に一抹の不安がよぎってくる。
 マフィアの手下に堕していくのか、医者としての尊厳を示せるのか。尊厳を示せる舞台はあちらから持ち込まれた。
 全米から集まったボスたちの前で大芝居を打ち、さらにポールを見事立ち直らせる。

(2)不登校になったマフィアの大ボス
 マフィアの大ボスがどうしてメソメソするようになったのか。
 1957年以来の全米マフィア会議がこのたび開かれることになった。親父の後を継いでいたポールは乗り気でなかったが出席を承諾せざるを得なかった。
 それからだ。パニック症候群になったのは。いうなれば不登校である。行きたくないばかりにいろんな不調が出てくるが、自分では原因が分からない。平気で人を殺す人間が声を出して泣いてしまう。ボスが不安になるたびに手下のジェリーが「主治医」を迎えに行く。そのお迎えぶりが毎度大笑いだ。すごくバカのいい味を出している。
 なぜ不登校になってしまったのか。57年の会議でニューヨークの大ボスになった父親だが、息子には会議に出席する人間、つまりヤクザになるなど望んでいなかった。親の気持ちが理解できずに逆恨みし、それがもとで父親は殺された。ポールにはそれが負い目になっていたのだ。

 (3)映画はサイコがお好き?
 ロリコンの語源は、ナボコフ原作キューブリック監督「ロリータ」から来ている。主人公がミドルティーンの頃の恋愛に挫折してからは、中年になっても少女を欲望の対象としてしまう悲しくもおバカなコンプレックスである。それに対してこの映画のキーポイントは「ファザコン」だ。
 アナライズは「分析する」という意味。アメリカでは歯医者のように精神分析医にかかっているようだ。ポールのようにそれを恥だと思っている人もいれば、ステ-タスだと思う人々もいると聞く。
 「分析」には、冷徹に原因を見極め根底から問題を解決するという合理性が感じられる。
 ベンはフロイト学派の精神分析に属しているようだが、彼がギリシャ神話を引き合いにした説明によると、父親に負い目を持つと勃起障害を引き起こすこともあるということだ! これこそがファザコンの典型的な症状なのである。
ロリコンといいファザコンといい、(アメリカ)映画はサイコがお好きといえそうだ。

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●『アシッド・ハウス』

     1999年
     監督:ポール・マクギガン
   脚本:アーヴィン・ウェルシュ
     原作:“THE ACID HOUSE”
        アーヴィン・ウェルシュ
     出演
     ボブ:アレックス・ホーデン
   ジョニー:スティーブン・マッコール
     ココ:ユエン・ブレンナー


(1)なさけない奴らの日々
P)いつからだろうね、洋画の原題をカタカナで表すこ とになったのは。おかげで辞典を引くようになったよ。 これっていいこと? 
S)しっかり見れば分かるっていいたいのよ、きっと。
P)3話のオムニバスだけどどれもキタナイ感じがする。 『アシッド』ってゲロっていうことかな。
S)まだ調べてないの? ホントにグズねえ。でも、い い線いってるよ。ドラッグのことよ。
P)最初の『ザ・グランドスターの悲劇』ってあれはク ソだよ。映画のことじゃないよ。主人公のこと。
S)最後に悲しくもハエになっちゃう。彼を自分の身代 わりにハエにした神様もクソね。他の話もそうよ。
P)『カモ』はお人好しの男が遊び好きな女に振り回さ れる。『アシッド・ハウス』はサッカーのフリーガン がカミナリとドラッグのせいで生まれたての赤ちゃん と心が入れ替わる。赤ちゃんはCMでダンスしてたブ キミ赤ちゃんみたい。
S)それぞれ男が主人公になっているけど、これは女を ターゲットにした映画よ。だって、なさけない奴らば っかしじゃん。

(2)神様は怠け者だった
P)アメリカのゴージャスな映画を見慣れてると、他の 国の映画って退屈しちゃう。画面が地味なんだもん。 覚悟するんだ。さあ、これから授業の始まりだって。
S)そこが損してるかも。ところがすぐにオヤオヤって なるんだな。
P)お笑いなんだろうけど、きつい。『ザ・グランドス ターの悲劇』なんて一日で主人公が転落しちゃうんだ。 チーム、実家、彼女、職場、みんな失って神様と出会 う。ところがこの神様、全然救ってくれないんだよ。
S)なにしろ余裕がない。『神は死んだ』なんていわれ てね。ノー天気に神様を讃美するアメリカと違うね。
P)落ち目の神様だけどさすがすごいこと言ってた。身 にしみた言葉があった。
S)人間を神様に似せて作ってやったんだから、力があ るはずなのに発揮しようとしないってね。そもそも神 様自身そういう性格の持ち主なんだ。
P)自分で自分を罰せれないから代わりに主人公をハエ にしてしまう。でも、ハエにされると、主人公のボブ は果敢にリベンジするんだよね。
S)カフカの『変身』よりは明るいかな。

 (3)カモと赤ちゃん
P)職場ではモテる男なのになぜかアバズレと結ばれて しまう男。結果的に見ればこんな男は確かに『カモ』 なんだけど、映画を見ている限りでは、女はただ自分 のペースでやっていただけなんだ。
S)笑っていいのかな、ちょっと見ててしんどかったよ。 だって、けっこういるんだよ、ああいうお人好しな男 が。あんたもそうかもね。
P)・・・。3話のうち、まあ、一番見やすかったとだ けいっておくよ。
S)赤ちゃんが手に入っただけでも幸せだって、男が母 親に弁解するシーンがあるんだけれど、それだけ少子 化が深刻なのかな。なんならうちのあげようか。
P)『アシッド・ハウス』の赤ちゃんは何でできてるの かな? この話が一番ハイテクを駆使してたんだと思 うけど、使われ方は謙虚だよね。自然を補足してるだ け。これがイギリス流の美学なのかな。その代わり俳優た ちが強烈に食い込んできたよ。
S)それがいいのか、どうか。熱いのはウザッタイって 感じになってきてると思わない? 最近。
P)やれやれ、ぼくたち倦怠期ですよ。

 (4)
ハリウッドの大スターや金正日みたいに個人の映画上映室を持っている人以外は、演劇や映画に主導権がなかったけれど、ビデオが普及してからは簡単に繰り返し見られるようになった。デジタル化が進めばページをパラパラとめくるみたいなこともできるようになるだろう。映画鑑賞がだんだん読書に近づいてくる。
で、その次は、作る方ですね、簡単になるのは。映画感想も映像を引用できるようになるのが手始めでしょうか。

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●『54 フィフティー★フォー』

  監督・脚本:マーク・クリストファー  
  撮影:アレクサンダー・グルツィンスキ   
  出演:ライアン・フィリップ、ネーヴ・キャンベル
サルマ・ハエック、マイク・マイヤーズ  他
  発売/販売元:アスミック・エース

 (2) ディスコという恋の場所
 1979年。ぼくは東京を出て地方の小都市で働き始めたばかりだった。ディスコには職場の同僚たちとワクワクしながら出かけた。ジョン・トラボルタのあの有名な映画もよそ事ではなかった。
 週末、米軍基地の街に遊びに行き、店内の明るい喫茶店に入る。お客はぼくしかいなかった。カウンター越しの女の子も明るかった。ぼくの住んでいる街のディスコのウワサをした。この街の方がずっといいらしい。一緒に行こうと誘ってくれた・・・。
 鹿鳴館の遠い時代から人々は夢にひたろうと集い快楽に溺れ、そして挫折と苦悩を味わう、それがディスコ。
 いなか町のローカル紙にもスタジオ54が紹介された。54のようなディスコをいなかにも作るために視察に出発した記事だった。
 人はつねに自分を補完する相手を求めてディスコという市場に物色しに出かける。出会い、そして出会いを深めるためにいりびたる。日常に倦んだ少年が、自分にふさわしい場所と相手を求めたといってなんの問題があるだろう。たとえ家を棄てたとしても。

    
 (1) ジェーンの回想
 少年っぽさの残る青年は川向こうにある大都会のまぶしい灯をいつも眺めていた。それは世界一の都会であり、無限のチャンスが待っているように思われた。
 自分の立っている街はくすんでいるし、遊びに行く店は冴えないし、家族は平凡の見本のようで、着ているシャツもダサダサ。ナンパした女の子に軽蔑され自分の境遇がどのようなものか気付かされたのだ。このままでいいわけがない。友人たちとニューヨークにあるハイクラスのディスコ「スタジオ54」への突入をはかる。
 オーナーのスティーヴ・ルベルは、招待者以外は入り口で押し合いへし合いしている者の中から適格者を選ぶ。東京にもそんな店が一、二店はあったように思う。
 青年は選ばれた。生涯で初めてのことだ。名はシェーン。さらにそこで働けるようになる。同僚たちはルベルがそうであったように、世界に羽ばたく夢を持っている。当面の目標は花形のバーテンダーに、女は歌手デビューすること。いや、スターへの夢を持って集まるのは駆け出しの芸能人も同じだ。同じ街出身であるジュリーもさらなるステージ・アップを目指していた。シェーンとジュリー、どちらが早くスターになるか。

 (3) ゲイ・マジック
 ドラッグ、セックス、札束が満ち満ちた危ないディスコを舞台にしているが、不思議に退廃的な匂いがしない。むしろさわやかな青春映画だ。
 平凡な家庭の子が大都会のディスコに潜り込む。そこにはすでに同年代の青年たちが夢を目指してチャンスをうかがっていた。
 世界中から大金持ちや有名アーチストたちが訪れる。そうかと思えばシェーンのような勤労者たちやドティという80歳の老婆までがのびのびと遊んでいる。
 何か変わった道具があるわけでなく、人間が寄せ集まっただけなのに、どこから魅力が湧いてくるのだろう。オーナー・ルベルのマジックというしかない。客を選ぶポイントはどこにあるのか。品性に「遊び」がないとダメなのだ。入場できなかった友達や出世できないグレッグはいいヤツだが、全身に「生活」が染みついている。
 思いっきりド派手なパフォーマンスでもしなければ凡人には入場は難しい。それに気づけないのがまた凡人というものか。ルベルはどうだろうか。ハゲ、デブの容姿はまず置くとして、彼は美少年好きなゲイである。これこそ究極の「遊び」であり、マジックの源ではないだろうか。

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2005年9月19日 (月)

ピカレスク 人間失格

  手が変わり品が変わっても太宰はイイ

製作:グランプリ
2002.07.27
133分 カラー ヴィスタサイズ モノラル
製作:北側雅司 
キャスティング・プロデューサー:綿引近人 
監督:伊藤秀裕 
脚本:山田耕大 
原作:猪瀬直樹 「ピカレスク  太宰治伝」 
主題歌: 河村隆一
「Stop the time forever」 

キャスト
太宰治:河村隆一 
戸山初枝:さとう珠緒 
大田静: 緒川たまき 
田辺なつみ:朱門みず穂 
井伏鱒二:佐野史郎 
檀一雄 :岸田修治 
山岸外史 :天宮良 
     大浦龍宇一 
     猪瀬直樹 
     田口トモロヲ 
     大杉漣 
津島佐知子:裕木奈江 
山口冨美江 :とよた真帆 

だんだん昭和は遠くなり、太宰の生きていた時代も遠くなってきたので、もう当時の雰囲気を出せる俳優はいなくなってきたのだが、それでも太宰という衝撃的な現象は時代を超えてきな臭いんだな、この映画を観てそう思った。
「これって映画?」
エピソードのつぎはぎのような出来具合だが、心中を繰り返した病的な小説家はそれでも実在感をかもし出す。

女たちってどうしてあんなにあんな男に献身的になるのだろう。女たちってナルシストにどんな影を見ているのだろう?

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2005年8月29日 (月)

機動戦士Zガンダム

テレビ放映版「機動戦士Zガンダム」13巻ついに見終わる

1985.3.2~1986.2.22放送 全50話 【STAFF】 総監督:富野由悠季/企画:日本サンライズ/原案:矢立肇/原作:富野由悠季

いまから20年前にテレビ(どの放送局なんだか?)で、「機動戦士ガンダム」に続いて放映された少年向けアニメ。
地球連邦軍より派生したティターンズという軍隊と人工衛星国家育ちのエゥーゴ軍、そして前シリーズで滅ぼされたジオン軍の残党たちの三つどもえの戦いが繰り広げられる。
前シリーズと同様、敵味方に分かれて戦っているとはいえ、個人的には愛情を抱いたり、ハリウッド映画のように、敵は徹底的に悪の権化で、憎たらしく、醜くと描かれてはいない。名ので、人間模様はけっこう複雑である。

シリーズ全体が窮屈だった。なぜならアニメには人間が演じるような遊びがない。そして、カミーユ・ビダンが象徴するようにキャラのほとんどが超まじめ人間。
親が殺され、関わっていた女性たちが次々と死んで、前シリーズで魂の抜け殻のようになったアムロに続いてカミーユもまたフヌケになってこの物語は終わる。なんだか悲しいな。

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2005年7月19日 (火)

スィングガールズ

とおのとほの

    スィングガールズ

公開:2004年
監督・脚本:矢口史靖

「ずくたれ」これは共通語なのだろうか? 少なくともこの映画のロケ地になった地方では使っている。意味は「煮ても焼いても食えない奴ら」のことを指していう言葉だ。
夏休み、暑くてボーッとなってしまう日々、試験の結果が悪くて補習を受けている女子高生たちは、先生の話など聞いちゃいない。机に大きな鏡を立てて自分の顔を一心不乱に工作している。そんなやつらを指していう言葉が「ずくたれ」。「なんで、いまどきの女子高生たちの実態を知ってるの?」と高校教師たちが度肝を抜くほど実態を正確につかんでいる。こんなずくたれどもが音楽の魅力を、楽器演奏の楽しさを知って、おりこうなブラスバンドの連中を見返してやるんだなんてこともいつのまにか忘れてひたすらいい演奏ができることだけに没頭していく。ずくたれどものおバカぶりに初めは笑っていたが、やがて静まり、そして感動の最終シーンになだれ込んでいく。セックスとか死とかの暗さはみじんもない。彼女たちを取り囲む自然豊かな田舎の風景には「ずくたれ」こそが似合っている。こんな底抜けの明るい青春映画、日本ではむしろ珍しい部類になっているのはどういうことなの?
NHK朝の連続ドラマ「ファイト」主演の本仮屋ユイカちゃんが、時間がさかのぼったみたいに、おとなっぽい不思議キャラで出ているのも楽しい。同監督の「ウォーターボーイズ」(01)もおもしろかったな。
映画館が暗いからと、病的な青春物ばかりでは、飽きちゃうよ。

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2005年7月18日 (月)

蜘蛛巣城

とおのとほ

      蜘蛛巣城

製作:1957年
監督:黒澤明
脚本:小国英雄 橋本忍 菊島隆三 黒澤明
原作:シェークスピア
キャスト:
鷲津武時:三船敏郎 
妻浅茅: 山田五十鈴 
小田倉則保:志村喬 
三木義明:千秋実 

1980年に公開されたロマン・ポランスキー監督「テス」(トマス・ハーディー 主演ナスターシャ・キンスキー)は忘れられない映画だった。そのロリコン監督の1971年公開の「マクベス」もまた忘れられない映画だった。
 シェークスピア原作のこの映画のオドロオドロしさはタブーを破って主君殺しをした男とその妻の責めさいなまれる良心の呵責と無残な末路にあるのだが、そもそもそこにいたったのは、誰でもが抱いている天下取りの欲望である。
 誰もが天下を取りたいと夢見、機会をうかがっているものである。その意味ではいつの世も下克上の戦国時代。
 魔女の妄言に翻弄されたのは魔女に何らかのたくらみがあったのではなく、自ら湧出させた妄想を信じすがってしまう人間共通の欲望による。それは誰もが身に覚えのある愚かな現実なのである。
 黒澤の翻案映画「蜘蛛巣城」は一部モチーフを「マクベス」から拝借したものではなく、ほぼマンマであるが、むしろその実現は見事という他なかった。やはり真理は国を越え時代を越えるものなわけだ。
 シェークスピア劇はセリフの展開が幅をきかせて、アクションのあまりないものだが、過剰なセリフをできる限り抑制して、戦国時代の勇猛みなぎるシーンを次々と繰り出す黒澤映画となっている。

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2005年7月10日 (日)

テレビ放映版 「機動戦士Zガンダム」 を見る その1

とおのとほの

    テレビ放映版 「機動戦士Zガンダム」 を見る その1

1985年作品。

第1話
脚本:大野木寛、斧谷稔
演出:今川泰宏
作画監督:北爪宏幸

第2話
脚本:鈴木裕美子、斧谷稔
演出:関田修
作画監督:小林利充

第1話 「黒いガンダム」 第2話 「旅立ち」

Zは「ゼータ」と読む。
「ファースト」の続シリーズ。ただし、主人公はアムロではなく、カミーユという少年だ。
前回の1年戦争から8年後の0087になる。
地球連邦軍のエリート部隊「ティターンズ」と、ジオンの残党も含むレジスタンス組織「エゥーゴ」の闘い。

アムロと違ってやたら気の強いカミーユは、ティターンズに反発して、さっそうと連邦軍の秘密兵器ガンダムMk-IIを、クワトロ(シャア)のグループに協力して二機とも奪い、エゥーゴ側に参入してしまう。
連邦軍の英雄だったブライトもまたティターンズの横暴に義憤し、エゥーゴ側に参入するのではないかと予感させられる場面もある。

もともとスペースコロニー在住者たちを軽視する地球在住者には批判的な雰囲気の濃厚だった「ファースト」。それでも主人公たちは連邦軍として矛盾を抑えてジオン独立軍と命を懸けて闘ってきた。煮え切らないところのあるアムロの性格と同様のドラマ展開といえる。
今シリーズは鼻っから一直線だ。今後の期待はその直線が折れる場面ということになる。

「ファースト」と呼ばれる最初のシリーズ「機動戦士ガンダム」は退屈して、第5巻までで見るのをあきらめ、劇場版の三部作を見て代替とした。
けれどビジュアル面では当時の技術的な限界があったかもしれないが、劇場版では省略されたいわゆる退屈な巻にこそ、少年たちを引き付けた魅力があったらしい。多感な中学生たちは、アクション・シーンだけに引き付けられたのではなく、父と子、母と子、幼友達、同僚とのコミュニケーションが「学び」として受け取ったようだ。
とほとしては、やはりそんなものは退屈でだった。けれど技術的に進化した「Z」はコツコツと見続けてみたいと思う。
評判のよかった「ファースト」に続いてやはり評判の高いシリーズのようだからだ。
アニメの技術的進化を確認するためにも現在の「シード・ディスティニー」まで見たいと思うのだが、年齢による時間的制限があるため、つまり先のない中年ゆえ、シリーズ全巻を見るのは「Z」のみとし、後のシリーズは適当にかいつまんでみる程度の収めたい。

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2005年7月 6日 (水)

ほしのこえ

情感たっぷりなんだけど おじさんには泣けなかった

公開:2002年 日本 アニメ
時間:25分
制作:新海誠
音楽:天門
声の出演:篠原美香
唄:Low

雰囲気たっぷりだというのは分かる。中学生を登場人物にしている学園モノであるとともに未来宇宙戦闘モノという、いいところどりもしている。いまどきの必須アイテムであるケータイをモチーフにしてもいる。しかも季節は梅雨から夏にかけている。たくさんの若者たちがこの世界にハマりこんだらしい。
ふたりはケンカしたわけでもないのに、国連宇宙軍に抜擢された彼女は地球からドンドン遠いところに進軍し、それに従ってメールの届く時間が長くなる。火星で1年、冥王星で8年かかるんだったかな?ともかくやり取りする時間がとてつもなく間が空いていく。長峰美加子は宇宙にいるかぎり15歳のまま。地球にいる寺尾昇はドンドン歳を取り、高校も卒業しもはや彼女との恋愛関係は宇宙に広がって拡散霧消するみたいに消えていく。
ケンカしたわけでもないのに失恋とはいえないのに、二人の間の恋愛は消えていくのだ。「宇宙と地上で恋愛を引き裂かれた初めての世代」だったかな。
この感覚は、一方が大学受験に合格し、一方が浪人するようなものだろうと思う。あるいは一方が一足早く社会人になり、一方がいつまでも夢を追っているともいえるだろうか。新しい設定だということは評価できる。でも、これだけではおじさんは泣けないなー。

自主制作版とDVD発売版の声優が違うので聞き比べるのもいいかも。

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2005年7月 4日 (月)

どん底

公開:1957年
上映時間137分 モノクロ
スタンダード 東宝作品
製作:黒澤明
原作:ゴーリキー『どん底』
脚本:小国英雄、黒澤明
出演:三船敏郎、山田五十鈴、
昭和32年芸術文化祭参加作品

  主人公と時間のない名作

十数年前、いちおう書店で手にしたことがある。ゴーリキー作「どん底」岩波文庫。1,2ページ開いてみるがおもしろそうではない。以後、この作品に目を通すことはしないことにしていた。
ところが、黒澤明監督が翻案映画を製作していたことに気が付いた。黒澤映画をおさらいしてみようかとレンタル屋さんの棚を眺めているとあの「どん底」が並び収まっているではないか。解説を読むとどうもおもしろそうだ。「姿三四郎」「用心棒」「七人の侍」と見続けて、どれも期待を裏切っておもしろいものばかりだった。

ある崩壊寸前の長屋。大部屋にたくさんのうらぶれた人々が暮らしている。三船敏郎はドロボーの役。酒の飲みすぎですっかり心身をやられている役者。鋳掛職人。飴売り。お遍路さん。ドロボーは大家の奥さんとできている。こんな連中の日常会話はさぞおもしろいだろうという設定だ。

2時間の映画を見るのに6時間以上かかった。なぜならば何度も眠ってしまったからだ。
おもしろいのになぜ眠ってしまうのか。ドタバタと意想外なことが次々と起きておもしろいはずだが、ここには物語がない。時間の進展がない。主人公がいない。感情移入をして時間とともに起承転結を歩んでいくということがないのだ。つねに現在、という気分。誰かが夢を語り、皆がそれに乗せられるか反発しながらも夢実現の道が進んでいく、そんなことでもあれば見るものも期待したり、がっかりしたりのワクワク感で映像に惹きつけられるのだろう。舞台劇の戯曲を翻案したせいか、シーンの変化もあまりなく、ステージ上で六、七人の人物たちがワイワイしている感じ。ゴーリキーはそんな作法を発明したのだ。だから名作なのだと思うが、黒澤にして眠くなる映画だった。

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2005年7月 2日 (土)

僕の彼女を紹介します

とおのとほ 思いがけない出会いって映画では時々ある

「僕の彼女を紹介します」

公開:2004 韓国
監督: クァク・ジョエン
出演:熱血巡査ヨ・ギョンジン: チョン・ジヒョン
   高校教師コ・ミョンウ:チャン・ヒョク

チョン・ジヒョンは「猟奇的な彼女」以来、気になる女優だった。でも、かわいかろうが、スタイルがよかろうが、性格が難点で、ぼくには敬遠したい映画だったので、同じキャラによる映画なら見なくてもよかった。
あんな荒っぽい女性はとても付き合いきれない。
さて、「猟奇的な」に比べてタイトルがさっぱりおもしろそうでない「僕の彼女を紹介します」をなんの期待ひとつなく見始めた。
ところが! 最初から最後まで時間を忘れさせるよな「猟奇的な」ドラマだったんだ。

正義心が強いっていうよりも、好奇心旺盛なイケイケ婦人警官ヨ・ギョンジンは間違って泥棒を追いかけているコ・ミョンウを逮捕してしまった。彼女は絶対に「ごめん」といわない女性。でも男性の方が受け入れて恋人同士になってしまう。
「気が強い」ってこんなことでもあったのか? と思い直させるような展開がそれから始まる。

ミョンウは旅行がてら、自分の田舎に彼女を連れて行く。その帰り道、長雨による土砂崩れで車ごと川に転落。ギョンジンは必死に気絶したミョンウを助ける。このあたりから映画の雰囲気は、コメディからシリアスに変わっていく。
「気が強い」って男をないがしろにするってこともあるけど、一筋に男に尽くすってことでもあったのか、と思い直す瞬間でもある。それから映画はドンドンと見る者を引き込み、想定外の「猟奇的な彼女」の世界とはまったく違う篤い篤い恋愛の世界に没入していくことになる。
再び日常に戻り、ミョンウは高校に、ギョンジンは悪者を追いかけ回す日々。 ギョンジンは彼女の捜査に協力して犯人を挟み撃つために出かけていく。他の刑事たちがその彼を誤って撃ち殺す。いやまだだ。こんなところではまだ感動の扉に入ることはできない。
天才だ! クァク監督は。そしてジヒョンの個性なくしてはこのダイナミックな展開はあり得なかっただろう。
日式でもなく、中華でもなく、ハリウッド流でもなしえなかった、韓国の風土にして初めでできた傑作だ。

思いかげない世界との出会い。この映画はものの見事に予想を裏切って見る者の心に切り込んでくれた。感謝。

ちなみに、この映画「僕の彼女を紹介します」は「猟奇的彼女」の続編になるんだそうですね。「沈黙の羊」が「レッドドラゴン」の続編になるように。公開の順序と内容の順序が違うようです。

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2005年7月 1日 (金)

逆襲のシャア

おじさんが見たアニメ
      

    機動戦士ガンダム ~逆襲のシャア~

公開:1988
時間:120分
製作:サンライズ
CAST:アムロ・レイ:古谷徹/シャア・アズナブル:池田秀一

少年たちの間では「ガンダム ファースト」と呼ばれている最初の作品を劇場版で見た。
次はと、少年やレンタル店の店員に尋ねるとまったく同じ答えが返ってきた。
「見るとしたらまずのこのシリーズからですね」
「えー、ずいぶん長いなあ」
「それなら、劇場版もありますが、やっぱりシリーズ全部見たほうがいいですよ」
第5巻まで見て気力も体力もつきてしまったわたしは、劇場版に乗り換えた。後半がおもしろかったのでその勢いで「逆襲のシャア」をも見てしまった。
何度も何度も細切れに、巻き戻しながら見ていたが、結局、数日後にはまとめて一気に見た。

シャアがジオン公国の正統な指導者として国民たちに愛され、ネオ・ジオン軍を自ら先頭に立って指揮するほぼパーフェクトな人間である。彼の新しい情熱は地球に隕石を落下させて冬の時代にさせようという。なによりも地球に無神経に安住する人々がにくくてたまらないのだ。しかし、その心の底にはなぜかただのモビル・スーツを操縦するパイロットのはずのアムロに嫉妬しライバル意識を持って戦いを挑もうとする情念が隠されているのだ。

「ガンダム」で敵味方に分かれて活躍するのは「ニュータイプ」と呼ばれる新人類たちである。
アムロは何の訓練も受けないのに、やむにやまれずガンダムに飛び込み敵と戦う羽目になったわけだが、なぜいきなりガンダムを操縦できるようになったかというとドラマでは「ニュータイプ」だからだそうだ。
わたしが見る限りは、電子回路工作が好きで没頭しがちな少年だから感覚が働いたのだろう、としか思えない。
けれど、およそ半田ごてなど持たないであろう少女もニュータイプとして登場し、楽々モビルスーツを使いこなす。彼らはまたエスパーまがいの超能力も微力ながら持っている。

さて、このような同じタイプの若者たちがなぜいきりたって戦うのだろう。
「ガンダム・ファースト」でも「逆襲のシャア」でもその秘密は最後に明かされる。
地球すなわち親にあいそをつかした少年少女たちは新しい親を求めていたのだ。
「ファースト」ではララァ・スンがアムロに共感しはじめてシャアが嫉妬するようになった。なぜならシャアはララァに母を求めていたのだ。
「逆襲のシャア」では、おてんば娘クェスがシャアにそそのかされてネオ・ジオン軍の戦士になってしまい、連邦の高官である父を、乗り込んでいた戦艦もろとも撃破してしまう。
クェスはアムロにも惹かれるものがあったが、シャアには父を求めていた。
地球母国と移民独立国の闘いがじつは若者たちの父や母に飢え希求する闘いであったのだ。

地球に落下しようとする小衛星を食い止めようとするアムロを支援して同僚たちのみならず地球からも志願したかのように救援に駆けつけ、最後は落下の摩擦熱によって形は溶け去ってしまうが、アムロの行動への共振の情念が小衛星を包み込み落下軌道外へと導いていく。

この最終場面などはもっともっと感動的に仕上げてほしかったな、と演歌好きなオジサン的には思うのだが、サラッとドライに仕上げるのがねらいだったのかもしれない。
また、ドラマの密度が濃すぎて一度見ただけではわけわからない、戦闘シーンも長すぎて飽きてきたほどだった。
アニメとはビジュアルな面が格段に進歩したとはいえ所詮、製作者によって作られたキャラクターである。その意味では正確に演じるわけだが、ぶれや期待を裏切るようなことがないだけ人間に比べて平板である。それを埋めるべく、哲学的なレトリックが多様されるようだが、こんどはそれが難解すぎることがある。このたびの映画にもその片鱗がうかがえた。
これからもいろいろとアニメを見てみようかと思うのだがどれだけ理解できるか清水の舞台から飛び降りる気分である。

世の中には「ガンダム・オタク」がたくさんおられることだろう。
ともかくおじさんとして正直な初発の感想を述べてみた。

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2005年6月26日 (日)

GUNDAM

とおの とほの気まぐれ感想

  劇場版「機動戦士ガンダム」GUNDAM は やっぱりおもしろかった

●原作/原案: 矢立肇、富野喜幸 総監督/監督: 富野喜幸 キャラクターデザイン: 安彦良和
●キャスト:古谷徹、池田秀一、鈴置洋孝他 
●主要キャラクター
アムロ・レイ、シャア・アズナブル、ブライト・ノア他
●公開年月日: 1981年3月14日
●Ⅰ部「機動戦士ガンダムⅠ劇場版」 
 Ⅱ部「機動戦士ガンダムⅡ劇場版 哀・戦士編」
 Ⅲ部「機動戦士ガンダムⅢ劇場版 めぐりあい宇宙編」

「ガンダム」三部作を見終わった。はじめは面白くなかったが、Ⅱ部と進み、Ⅲ部にゆきつくと、ビジュアル面が格段に進化していて、さらにアムロ少年もガンダムの操縦に慣れ、またガンダム自体もチューンナップされたという諸条件によって最高の盛り上がりを見せた。
最後を見たら、テレビ放映版を見ずにはいられなくなるし、さらに次のシリーズに手が伸びていく。ヤバッ! いいおじさんがガンダムかよ!
当初、面白くなかったのは、少年向け教養として人間のドラマを描いて教訓を垂れていたからかもしれない。それを我慢して見続けたご褒美としておいしい戦闘シーンが与えられる、そういう仕組みだったのかも。

ガンダムのストーリー。地球の人口が爆発的に増え、居住用宇宙衛星を建設してたくさんの人間たちが移住。そのいくつかが地球に反旗を翻して独立戦争を始めた。
地球連邦軍とジオン公国独立軍の戦闘が始まった。戦闘を仕掛けたジオン軍は、入念な準備のおかげで、連邦軍よりも優れた兵器を開発していた。それがモビールスーツだ。連邦軍も対抗してやがて開発する。それがガンダムだ。

見かけは巨大ロボットだが、鉄腕アトムのようにAIコンピュータを内蔵しているわけでもなく、鉄人28号のように外から操縦されるわけでもない。またエイトマンのようなサイボーグでもない。ただの人型機械なのだ。胸部にあるコクピットに人間が乗り込み運転する。ずいぶん後退したアイテムだが、魅力はアムロ少年のだだっこぶりにある。それは「エヴァンゲリオン」のシンジに受け継がれるキャラであろう。

当初は人間の心を描いていたために、活劇が少なく退屈だった。平板なセル画が陳腐なセリフを吐いているシーンは見る者をなんども睡眠の世界へと誘う。そもそも画が退屈なのだ。それが次第に巧緻を極めていく。まるで「巨人の星」だ。そう思ったら、アムロ少年担当の声優はなんと星飛雄馬と同じ古谷徹だった! 星飛雄馬にはライバル花形満がいる。アムロにはシャアという、かわいくかっこいいライバルが終始アムロにプレッシャーをかけていく。かくして次回シリーズへ引き継がれるべく絢爛豪華な終局によって感動と陶酔が準備されるのだった。

ちょっと思ったんだけど、アメリカ映画って、ガンダムと違って、主人公の相手はたいがい敵であり、それは醜い姿をしていたり、悪の権化だったりしている。ガンダムでも相手が少々ずるがしこかったりするけれど、ファンが付きたくなるようなキャラもいる。

アメリカはライバルの存在を認めないのかな?

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2005年6月11日 (土)

黒澤明監督の映画を見る 「用心棒」

まず「天国と地獄」次は「姿三四郎」を見ました。

黒澤というとなんだか重たい感じがしたので、まずとっかかりに「アクションっぽいかも」と思われた柔道映画「姿三四郎」を見ました。けっこう気軽に見れたので、というより「おもしろかった」ということで、つぎは大作「七人の侍」を見ようかとTSUTAYAに出かけましたら、誰かが借りている。ビデオはありましたが、やっぱりDVDでしょ、ということで、このたびは、「用心棒」を借りてきたました。

「天国と地獄」でも主役を務めた三船敏郎。彼は黒澤に重宝されたんですねえ。まったく対照的な仲代達矢も重宝されたようですけど。

「用心棒」では飄々としたわけわかんない浪人を三船さんは演じてました。

昔の日本人はこれで納得したんだなあ。

どんなキャラかといいますと、

まったく縁もゆかりもなくただ、たまたま通った宿場町のヤクザの抗争を見て、解決してやろうと命を懸けて闘う男なんです。

一見、飄々として、がめつく夢見るような男ではないんです。そのくせボランティアで街の清掃活動をやるんですよ。

たとえば、自分の愛する女性が抗争に巻き込まれて殺されたとか、その恋人に大金をもらって頼まれた、というなら分かります。

まったくの無償で、誰にも頼まれず、偶然に任せてやってきた宿場町のヤクザのもめごとに割って入って掃除しちゃうなんて、どうも分からん人物ですよ。

でも、1961年封切った時代のの日本人には分かったのかなあ。

昔の日本人はそれだけおひとよしだったってことですかねえ。

1972年には「あっしには関わりのねえこってござんす」という言葉で大ヒットした木枯らし紋次郎とはずいぶん対照的ですよね。この頃から日本人は変わったんでしょうか。つまり私のような人間が排出するようになったんでしょうか。

木枯らしの巻き上げる宿場町を用心棒桑畑三十郎(?)が歩くシーンは、妻いわく「西部劇みたい」

黒澤は西部劇をふんだんに取り込んだのでしょうか? でも同時に遠近法とでも申すのでしょうか、黒澤流の画面構成が巧みで3D演劇みたなところがチョーウケますよね。

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